112 山上の説教

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(このゆうめいなせっきょうは、がりらやのさんぷくでいえすが)

この有名な説教は、ガリラヤの山腹でイエスが

(きげん30ねんころにおこなったもので、せいしょのまたい)

紀元30年ころに行ったもので、聖書のマタイ

(によるふくいんしょでくわしくかたられており、いえすの)

による福音書で詳しく語られており、イエスの

(おしえのちゅうかくとなるかんがえがひじょうによくあらわれている。)

教えの中核となる考えが非常によく表れている。

(このせっきょうで、いえすはでしたちに、じっかいで)

この説教で、イエスは弟子たちに、十戒で

(もとめられているいじょうにただしくふるまうようにと)

求められている以上に正しく振る舞うようにと

(といた。じっかいにしたがうだけではすくいをえるのに)

説いた。十戒に従うだけでは救いを得るのに

(じゅうぶんではないというのだ。ひとをころしては)

十分ではないというのだ。人を殺しては

(いけないだけではなく、はらをたててもならない。)

いけないだけではなく、腹を立ててもならない。

(かんいんしてはならないだけでなく、みだらなおもい)

かん淫してはならないだけでなく、みだらな思い

(もいだいてはならない。ぬすんではならないだけでなく、)

も抱いてはならない。盗んではならないだけでなく、

(ぶっしつてきなよっきゅうについてかんがえるのもいけない。)

物質的な欲求について考えるのもいけない。

(いえすはでしたちに、りっぽうがくしゃのおしえにでは)

イエスは弟子たちに、律法学者の教えにでは

(なく、かみのおしえにのみしたがえとうったえたのである。)

なく、神の教えにのみ従えと訴えたのである。

(なぜならかみのみが、ひとびとをおしえみちびくことの)

なぜなら神のみが、人々を教え導くことの

(できるかんぜんなそんざいだからだ。)

できる完全な存在だからだ。

(さらに、このせっきょうでいえすはちょうしゅうに、きゅうやくせいしょ)

さらに、この説教でイエスは聴衆に、旧約聖書

(でめいじられている「めにはめを、はにははを」)

で命じられている「目には目を、歯には歯を」

(しきのふくしゅうをしてはならず、むしろ「ひだりのほおを)

式の復讐をしてはならず、むしろ「左の頬を

(もむけ」て、ひどいしうちをさらにうけいれる)

も向け」て、ひどい仕打ちをさらに受け入れる

など

(ようにともとめた。いえすは「あくにんにてむかって)

ようにと求めた。イエスは「悪人に手向かって

(はならない」とさえといている。)

はならない」とさえ説いている。

(このせっきょうをどうかいしゃくするかは、ひじょうにむずかしい)

この説教をどう解釈するかは、非常に難しい

(もんだいだ。いっけんすると、いえすはきゅうさいのじょうけんを)

問題だ。一見すると、イエスは救済の条件を

(ひじょうにたかくせっていしており、これをじっせんするのは、)

非常に高く設定しており、これを実践するのは、

(どれほどねっしんなでしでもむりにおもえる。)

どれほど熱心な弟子でも無理に思える。

(それでも、いえすをぜったいしするひとびとのなかには、)

それでも、イエスを絶対視する人々の中には、

(きゅうさいをえるには、このせっきょうでとかれたないように)

救済を得るには、この説教で説かれた内容に

(げんみつにしたがわなくてはならないとかんがえるひとたちがいる。)

厳密に従わなくてはならないと考える人たちがいる。

(そのいっぽうで、いえすはこちょうしてかたっているのだ)

その一方で、イエスは誇張して語っているのだ

(というひともいて、そうしたひとたちはせっきょうでの)

と言う人もいて、そうした人たちは説教での

(おしえを、げんじつせかいにてきおうするさいはひつようにおうじて)

教えを、現実世界に適応する際は必要に応じて

(しゅうせいしなくてはならないししんにすぎないと)

修正しなくてはならない指針にすぎないと

(かんがえている。)

考えている。

(あるべるとしゅヴぁいつぁーは、いえすは)

アルベルト・シュヴァイツァーは、イエスは

(せかいのおわりがちかいとおもっていたので、)

世界の終わりが近いと思っていたので、

(いきのびることは(「あくにんにてむかっては)

生き延びることは(「悪人に手向かっては

(ならない」などのおしえにもじどおりしたがっていては、)

ならない」などの教えに文字どおり従っていては、

(とうていむりなのだから)じゅうししていなかった)

とうてい無理なのだから)重視していなかった

(とのべている。またべつのせつによると、これほど)

と述べている。また別の説によると、これほど

(きびしいおしえをでしたちはまもれないだろうが、)

厳しい教えを弟子たちは守れないだろうが、

(それによってくいあらためるようになるだろうと)

それによって悔い改めるようになるだろうと

(いえすはきたいしたのだという。)

イエスは期待したのだという。

(このようにたようなかいしゃくはあるが、さんじょうのせっきょうは)

このように多様な解釈はあるが、山上の説教は

(いまもきりすときょうのじゅうようなこんげんとなっている。)

今もキリスト教の重要な根源となっている。

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