寺田寅彦 流言蜚語
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問題文
(ながいくだのなかへ、すいそとさんそとをてきとうなわりあいにこんごうしたものをいれておく、)
長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、
(そうしてそのくだのいったんにちかいところで、ちいさなでんきのひばなをがすのなかで)
そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯の中で
(とばせる、するとひばなのところではじまったねんしょうが、つぎへつぎへとでんぱしていく、)
飛ばせる、すると火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、
(でんぱのそくどがきゅうげきにぞうかし、ついにいわゆるばくはつのなみとなって、おどろくべきそくどで)
伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で
(しんこうしていく。これはよくしられたことである。)
進行して行く。これはよく知られた事である。
(ところがすいそのこんごうのわりあいがあまりすくなすぎるか、あるいはおおすぎると、)
ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、
(たとえひばなをとばせてもねんしょうがおこらない。もっともひばなのすぐそばでは、)
たとえ火花を飛ばせても燃焼が起こらない。尤も火花のすぐそばでは、
(ひばなのためにかがくさようがおこるが、そういうさようが、しほうへでんぱしないで、)
火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、
(そこかぎりですんでしまう。)
そこ限りですんでしまう。
(りゅうげんひごのでんぱのじょうきょうには、ぜんきのねんしょうのでんぱのじょうきょうと、けいしきのうえからみて)
流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て
(いくぶんかるいじしたてんがある。)
幾分か類似した点がある。
(さいしょのひばなにそうとうするりゅうげんの「みなもと」がなければ、りゅうげんひごはせいりつしないことは)
最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は
(もちろんであるが、もしもそれをつぎへつぎへとうけつぎとりつぐべきばいしつが)
勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が
(そんざいしなければ「でんぱ」はおこらない。したがっていわゆるりゅうげんがりゅうげんとして)
存在しなければ「伝播」は起こらない。従っていわゆる流言が流言として
(せいりつしえないで、そのばかぎりにたちぎえになってしまうこともめいはくである。)
成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
(それで、もし、あるきかいに、とうきょうしちゅうに、あるりゅうげんひごのげんしょうがおこなわれたと)
それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたと
(すれば、そのせきにんのすくなくもはんぶんはしみんじしんがおわなければならない。)
すれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。
(ことによるとそのきゅうわりいじょうもおわなければならないかもしれない。なんとならば、)
事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、
(あるとくべつなきかいには、りゅうげんのみなもととなりうべきちいさなひばなが、こいにもぐうぜんにも)
ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも
(いたるところにはっせいするということは、ほとんどひつぜんな、ふかこうてきなしぜんげんしょうであるとも)
到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも
(かんがえられるから。そしてそういうばあいにもししみんじしんがでんぱのばいしつと)
考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質と
(ならなければりゅうげんはけっしてゆうこうにせいりつしえないのだから。)
ならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
(「こんやのさんじにおおじしんがある」というりゅうげんをはっしたものがあったとかていする。)
「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。
(もしもそのちょうないのおやじかぶのひとのたとえばさんわりでもが、そんなせいみつなじしんよちの)
もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の
(ふかのうだというげんざいのじじつをかくじつにしっていたなら、そのようなりゅうげんのたまごは)
不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は
(かえらないでくさってしまうだろう。これにはんして、もしそういうりゅうげんが、)
孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、
(ゆうこうにでんぱしたとしたら、どうだろう。それはこのようなめいはくなじじつをかくじつに)
有効に伝播したとしたら、どうだろう。それはこのような明白な事実を確実に
(しっているひとがいかにしょうすうであるかということをしめすしょうことみられても)
知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても
(しかたがない。)
仕方がない。
(おおじしん、おおかじのさいちゅうに、ぼうとがたってとうきょうじゅうのいどにどくやくをとうじ、)
大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、
(しゅようなたてものにばくだんをとうじつつあるというりゅうげんがはなたれたとする。そのばあいに、)
主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、
(かりにつぎのようなことをかんがえてみたとしたら、どうだろう。)
仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
(たとえばしちゅうのいどのいちわりにどくやくをとうじるとかていする。そうして、そのいどみずを)
例えば市中の井戸の一割に毒薬を投じると仮定する。そうして、その井戸水を
(ひとりのにんげんがいちどのんだときに、そのひとをころすか、ひどいめにあわせるに)
一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに
(じゅうぶんなだけののうどにそのどくやくをこんずるとする。そうしたときにはたしてどれだけの)
充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの
(ぶんりょうのどくやくをようするだろうか。このもんだいにてきかくにこたえるためには、もちろんまず)
分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず
(どくやくのしゅるいをかていしたうえで、そのきょくりょうをすいていし、またひとりがいちにちにのむみずの)
毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の
(りょうや、いどみずのへいきんぜんりょうや、しちゅうのいどのそうすうや、そういうもののがいりゃくなすうちを)
量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を
(しらなければならない。しかし、いわゆるかがくてきじょうしきというものからくるばくぜんと)
知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然と
(したがいねんてきのすいさんをしてみただけでも、それがいかにただいなぶんりょうをようする)
した概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要する
(だろうかというそうぞうぐらいはつくだろうとおもわれる。いずれにしても、)
だろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、
(ぼうとは、じしんまえからかなりおおきなどくやくのすとっくをもっていたとかんがえなければ)
暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければ
(ならない。そういうことはありえないことではないかもしれないが、すこしおかしい)
ならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい
(ことである。)
事である。
(かりにそれだけのよういがあったとかていしたところで、それからさきがなかなか)
仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか
(たいへんである。なんびゃくにん、あるいはなんぜんにんのぼうとにいちいちぶしょをさだめて、どくやくを)
大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を
(わたして、かくほうめんにはけんしなければならない。これがなかなかじかんをようする)
渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する
(しごとである。さてそれができたとする。そうしてひとりひとりにさずけられたかんを)
仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を
(せおってでかけたうえで、じぶんのうけもちほうめんのいどのありかをさがしてあるかなければ)
背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければ
(ならない。いどをみつけて、それからひとのみないきかいをねらって、いよいよ)
ならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ
(とうかする。しかしゆうこうにやるためにはおおよそのいどみずのぶんりょうをみつもって)
投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積って
(そのうえでとうにゅうのぶんりょうをかげんしなければならない。そうして、それをとうにゅうした)
その上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した
(うえで、よくようかいしこんわするようにかきまぜなければならない。かんがえてみると)
上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみると
(これはなかなかたいへんなしごとである。 こんなことをかんがえてみれば、)
これはなかなか大変な仕事である。 こんな事を考えてみれば、
(どくやくのりゅうげんを、ぜんぜんしんじないとまではいかなくとも、すくなくもめいめいのじたくの)
毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の
(いどについてのおそろしさはいくらかげんじはしないだろうか。)
井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
(ばくだんのはなしにしてもどうようである。しちゅうのめぼしいたてものにかたっぱしからなげこんで)
爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んで
(あるくためにひつようなばくだんのすうりょうやひとでをかんがえてみたら、すくなくもやまのてのまずしい)
あるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい
(やしきまちのひとびとののきなみにはれつしでもするようなかどのきょうこうをひきおこさなくても)
屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくても
(すむことである。 もっとも、ひじょうなてんさいなどのばあいにそんなきらくなむなざんようなどをやる)
すむ事である。 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる
(よゆうがあるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。)
余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。
(そうだとすれば、それはそのしみんに、ほんとうのいみでのいきたかがくてきじょうしきが)
そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が
(けつぼうしているということをしめすものではあるまいか。 かがくてきじょうしきというのは、)
欠乏しているという事を示すものではあるまいか。 科学的常識というのは、
(なにも、てんのうせいのきょりをあんきしていたり、ヴぃたみんのいろいろなしゅるいをこころえて)
何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンのいろいろな種類を心得て
(いたりするだけではないだろうとおもう。もうすこしてぢかなところにいきて)
いたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて
(はたらくべき、はんだんのひょうじゅんになるべきものでなければなるまいとおもう。)
働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
(もちろん、じょうしきのはんだんはあてにならないことがおおい。かがくてきじょうしきはなおさらである。)
勿論、常識の判断はあてにならない事が多い。科学的常識は猶更である。
(しかしてきとうなかがくてきじょうしきは、ことにのぞんでわれわれに「かがくてきなせいさつのきかいとよゆう」を)
しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を
(あたえる。そういうせいさつのおこなわれるところにはいわゆるりゅうげんひごのごときものは)
与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは
(いちじるしくそのねつどとでんぱのうりょくをよわめられなければならない。たとえせいさつのけっかが)
著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が
(あやまっていて、そのためにりゅうげんがじつげんされるようなことがあっても、すくなくも)
誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも
(ぶんかてきしみんとしてのはなはだしいちじょくをさらすことなくてすみはしないかと)
文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと
(おもわれるのである。)
思われるのである。
((たいしょうじゅうさんねんくがつ「とうきょうにちにちしんぶん」))
(大正十三年九月『東京日日新聞』)