信号手 - 1

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原作:チャールズ・ディケンズ 訳:岡本綺堂

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問題文

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(「おぅい、したにいるひと!」)

「おぅい、下にいる人!」

(わたしがこうよんだこえをきいたとき、)

私がこう呼んだ声を聞いたとき、

(しんごうてはみじかいぼうにまいたはたをもったままで、)

信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、

(あたかもしんごうじょのこやのまえにたっていた。)

恰も信号所の小屋の前に立っていた。

(このとちのかってをしっていれば、このこえのきこえたほうがくを)

この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を

(ききあやまりそうにもおもえないのであるが、)

聞き誤まりそうにも思えないのであるが、

(かれはじぶんのあたまのすぐうえのけわしいだんがいのうえにたっているわたしをみあげもせずに、)

彼は自分の頭のすぐ上の嶮しい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、

(あたりをみまわしてさらにせんろのうえをみおろしていた。)

あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。

(そのふりむいたようすが、どういうわけであるかしらないがすこしくかわっていた。)

その振り向いた様子が、どういう訳であるか知らないが少しく変わっていた。

(じつをいうと、わたしはたかいところからはげしいゆうひにむかって、)

実をいうと、わたしは高いところから烈しい夕日にむかって、

(てをかざしながらかれをみていたので、)

手をかざしながら彼を見ていたので、

(ふかいみぞにかげをおとしているしんごうてのすがたはよくわからなかったのであるが、)

深い溝に影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、

(ともかくもかれのふりむいたようすはたしかにおかしくおもわれたのである。)

ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。

(「おぅい、したにいるひと!」)

「おぅい、下にいる人!」

(かれはせんろのほうがくからふりむいて、ふたたびあたりをみまわして、)

彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、

(はじめてあたまのうえのたかいところにいるわたしのすがたをみた。)

初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。

(「どこかおりるところはありませんかね。きみのところへいってはなしたいのだが・・・・・・」)

「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」

(かれはへんじもせずにただみあげているのである。)

彼は返事もせずにただ見上げているのである。

(わたしもしつこくにどとはききもせずにみおろしていると、あたかもそのときである。)

わたしも執拗く二度とは聞きもせずに見おろしていると、恰もその時である。

(さいしょはばくぜんとしただいちとくうきとのどうようが、やがてはげしいしんどうにかわってきた。)

最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。

など

(わたしはおもわずひきたおされそうになって、あわててあとずさりをすると、)

わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、

(きゅうそくりょくのれっしゃがあたかもわたしのたかさにじょうきをふいて、とおいけしきのなかへきえていった。)

急速力の列車が恰も私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。

(ふたたびみおろすと、かのしんごうてはれっしゃつうかのさいにあげていたしんごうきを)

ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を

(ふたたびまいているのがみえた。)

再び巻いているのが見えた。

(わたしはかさねてきいてみると、かれはしばらくわたしをじっとみつめていたが、)

わたしは重ねて訊いてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、

(やがてまいてしまったはたをかざして、わたしのたっているたかいところから)

やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から

(に、さんびゃくやーどのとおいほうがくをさししめした。)

二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。

(「ありがとう」)

「ありがとう」

(わたしはそういって、しめされたほうがくにむかってしゅういをみまわすと、)

私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、

(そこにはこうていのはげしいこみちがあったので、まずそこをおりていった。)

そこには高低のはげしい小径があったので、まずそこを降りて行った。

(だんがいはかなりにたかいので、ややもすればまっさかさまにおちそうである。)

断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。

(そのうえにしめりがちのがんせきばかりで、)

その上に湿りがちの岩石ばかりで、

(ふみしめるたびにみずがしみだしてすべりそうになる。)

踏みしめるたびに水が滲み出して滑りそうになる。

(そんなわけで、わたしはかれのおしえてくれたみちをたどるのがまったくいやになってしまった。)

そんな訳で、私は彼の教えてくれた道をたどるのが全く忌になってしまった。

(わたしがこのなんぎなこみちをおりて、ひくいところにきたときには、)

私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、

(しんごうてはいまれっしゃがつうかしたばかりのれーるのあいだにたちどまって、)

信号手はいま列車が通過したばかりのレールの間に立ちどまって、

(わたしがでてくるのをまっているらしかった。)

私が出てくるのを待っているらしかった。

(しんごうてはうでをくむようなかっこうをして、ひだりのてであごをささえ、)

信号手は腕を組むような格好をして、左の手で顎を支え、

(そのひじをみぎのてのうえにやすめていたが、そのたいどはなにかきたいしているような、)

その肱を右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、

(またふかくちゅういしているようなふうにみえたので、)

また深く注意しているようなふうにみえたので、

(わたしもけげんにおもってちょっとたちどまった。)

わたしも怪訝に思ってちょっと立ちどまった。

(わたしはふたたびくだって、ようやくせんろとおなじひくさのばしょまでたどりついて、)

わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、

(はじめてかれにちかづいた。)

はじめて彼に近づいた。

(みると、かれはうすぐろいひげをはやして、まつげのふかいいんうつなあおじろいかおのおとこであった。)

見ると、彼は薄黒い髭を生やして、睫毛の深い陰鬱な青白い顔の男であった。

(そのうえに、ここはわたしがまえにみたよりもこうりょういんさんというべきばしょで、)

その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、

(りょうがわにはががたるしめっぽいがんせきばかりがあらゆるけしきをさえぎって、)

両側には峨峨たる湿っぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、

(わずかにおおぞらをあおぎみるのである。)

わずかに大空を仰ぎ観るのである。

(いっぽうにみえるのは、おおいなるろうごくとしかおもわれない)

一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない

(まがりくねったいわみちのえんちょうがあるのみで、)

曲がりくねった岩道の延長があるのみで、

(ほかのいっぽうはくらいあかいあかりのあるところでかぎられた、)

他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、

(そこにはあんこくなとんねるのいっそうくらいいりぐちがある。)

そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。

(そのおもくるしいようなたたみいしは、なんとなくそやで、しかもひとをあっするような、)

その重苦しいような畳み石は、なんとなく粗野で、しかも人を圧するような、

(たえられないかんじがするうえに、にっこうはほとんどここへさしこまず、)

堪えられない感じがする上に、日光はほとんどここへ映し込まず、

(つちくさいゆうどくらしいにおいがそこらにただよって、)

土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、

(どこからともなしにふいてくるつめたいかぜがみにしみわたった。)

どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。

(わたしはこのよにいるようなきがしなくなった。)

私はこの世にいるような気がしなくなった。

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