外套 - 1

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原作:ニコライ・ゴーゴリ 訳:平井肇

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問題文

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(あるしょうのあるきょくに・・・・・・しかしなにきょくとはっきりいわないほうがいいだろう。)

ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。

(おしなべてかんぼうとかれんたいとかじむきょくとか、ひとくちにいえば、)

おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、

(あらゆるやくにんかいきゅうほどおこりっぽいものはないからである。)

あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。

(こんにちではそうじてじぶんいっこがぶじょくされても、)

今日では総じて自分一個が侮辱されても、

(なんぞやそのしゃかいぜんたいがぶじょくされでもしたようにおもいこむくせがある。)

なんぞやその社会全体が侮辱されでもしたように思いこむ癖がある。

(ついさいきんにも、どこのしだったかしかとはおぼえていないが、)

つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、

(さるけいさつしょちょうからじょうしんしょがていしゅつされて、)

さる警察署長から上申書が提出されて、

(そのなかには、こっかのいれいがきたいにひんしていること、)

その中には、国家の威令が危殆に瀕している事、

(けいさつしょちょうというしんせいなかたがきがむやみにらんようされていることとうが)

警察署長という神聖な肩書が無闇に濫用されている事等が

(めいきされていたそうである。しかも、そのしょうこだといって、)

明記されていたそうである。しかも、その証拠だといって、

(くだんのじょうしんしょにはいっぺんのしょうせつめいたはなはだしくぼうだいなじゅっさくがそえてあり、)

件の上申書には一篇の小説めいたはなはだしく厖大な述作が添えてあり、

(そのじゅっぺーじごとにけいさつしょちょうがとうじょうするばかりか、)

その十頁ごとに警察署長が登場するばかりか、

(ところによっては、へべれけにでいすいしたすがたをあらわしているとのことである。)

ところによっては、へべれけに泥酔した姿を現わしているとの事である。

(そんなしだいで、いろんなおもしろからぬことをさけるためには、べんぎじょうこのもんだいのきょくを、)

そんな次第で、色んな面白からぬ事を避ける為には、便宜上この問題の局を、

(ただ「あるきょく」というだけにとどめておくにしくはないだろう。)

ただ「ある局」というだけにとどめておくに如くはないだろう。

(さて、そのあるきょくに、「ひとりのかんり」がつとめていた--)

さて、そのある局に、「一人の官吏」が勤めていた--

(かんり、といったところで、たいしてりっぱなやくがらのものではなかった。)

官吏、といったところで、大して立派な役柄の者ではなかった。

(せたけがちんちくりんで、かおにはうすあばたがあり、かみのけはあかちゃけ、)

背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、

(それにめがしょぼしょぼしていて、ひたいがすこしはげあがり、)

それに目がしょぼしょぼしていて、額がすこし禿あがり

(ほおのりょうがわにはこじわがよって、どうもそのかおいろはいわゆるじもちらしい・・・・・・)

頬の両側には小皺が寄って、どうもその顔色はいわゆる痔もちらしい……

など

(しかし、これはどうもしかたがない!つみはぺてるぶるぐのきこうにあるのだから。)

しかし、これはどうも仕方がない!罪はペテルブルグの気候にあるのだから。

(かんとうにいたっては(それというのも、わがくにではなにはさて、)

官等にいたっては(それというのも、わが国では何はさて、

(かんとうをだいいちにごひろうしなければならないからであるが)、)

官等を第一に御披露しなければならないからであるが)、

(いわゆるまんねんきゅうとうかんというやつで、これはしってのとおりかみつくこともできない)

いわゆる万年九等官というやつで、これは知っての通り噛みつく事もできない

(あいてをやりこめるというまことにけっこうなしゅうかんをもつぼんぴゃくのぶんしれんから)

相手をやりこめるというまことにけっこうな習慣を持つ凡百の文士連から

(ぞんぶんにぐろうされたり、ひやかされたりしてきたかんとうである。)

存分に愚弄されたり、ひやかされたりしてきた官等である。

(このかんりのせいはばしまちきんといった。)

この官吏の姓はバシマチキンといった。

(このなまえそのものから、それがたんぐつにゆらいするものであることはあきらかであるが、)

この名前そのものから、それが短靴に由来する物である事は明らかであるが、

(しかしいつ、いかなるじだいに、どんなふうにして、)

しかしいつ、いかなる時代に、どんなふうにして、

(そのせいがばしまくということばからでたものか--それはかいもくわからない。)

その姓がバシマクという言葉から出たものか--それは皆目わからない。

(ちちもそふも、あまつさえぎきょうだいまで、)

父も祖父も、あまつさえ義兄弟まで、

(つまりばしまちきんいちぞくのものといえばみながみなひとりのこらずながぐつをもちいており、)

つまりバシマチキン一族の者といえば皆が皆ひとり残らず長靴を用いており、

(そこがわはねんにほんのさんどぐらいしかはりかえなかった。)

底革は年にほんの三度ぐらいしか張り替えなかった。

(かれのなはあかーきい・あかーきえうぃっちといった。)

彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。

(あるいは、どくしゃはこのなまえをいささかきみょうなわざとらしいものにおもわれるかもしれないが、)

或いは、読者はこの名前を聊か奇妙な態とらしい物に思われるかもしれないが、

(しかしこのなまえはけっしてことさらえりごのんだものではなく、)

しかしこの名前は決して殊更選り好んだ物ではなく、

(どうしてもこうよりほかになまえのつけようがなかったじじょうが、)

どうしてもこうより他に名前のつけようがなかった事情が、

(しぜんとそこにしょうじたからだとだんげんすることができる。)

自然とそこに生じたからだと断言することができる。

(つまり、それはこういうわけである。)

つまり、それはこういうわけである。

(あかーきい・あかーきえうぃっちはわたしのきおくにしてまちがいさえなければ、)

アカーキイ・アカーキエウィッチは私の記憶にして間違いさえなければ、

(さんがつにじゅうさんにちのしんこうにうまれた。いまはなき、そのおふくろというのはかんりのさいくんで、)

三月二十三日の深更に生まれた。今は亡き、そのお袋というのは官吏の細君で、

(ひどくきだてのやさしいおんなであったが、しかるべくあかんぼうにせんれいをほどこそうとかんがえた。)

酷く気立ての優しい女であったが、然るべく赤ん坊に洗礼を施こそうと考えた。

(おふくろはまだとぐちにむかいあったしんだいにふせっており、)

お袋はまだ戸口に向かいあった寝台に臥っており、

(そのみぎてにはいわん・いわーのヴぃっち・えろーしきんといって、)

その右手にはイワン・イワーノヴィッチ・エローシキンといって、

(とうじげんろういんのこさんじむかんであった、このうえもなくりっぱなじんぶつがきょうふとして)

当時元老院の古参事務官であった、この上もなく立派な人物が教父として

(ひかえており、またきょうぼとしてはくのけいさつしょちょうのさいくんで、)

控えており、また教母としては区の警察署長の細君で、

(ありーな・せみょーのヴな・びぇろヴりゅーしこわという、)

アリーナ・セミョーノヴナ・ビェロヴリューシコワという、

(よにもめずらしいぜんりょうおんがなふじんがたたずんでいた。)

世にもめずらしい善良温雅な婦人が佇んでいた。

(そこでさんぷにむかって、もーきいとするか、そっしいとするか、)

そこで産婦に向かって、モーキイとするか、ソッシイとするか、

(それともじゅんきょうしゃほざざーとのなにちなんでめいめいするか、)

それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、

(とにかくこのみっつのうちどれかすきななまえをえらぶようにともうしでた。)

とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶようにと申し出た。

(「まあいやだ。」と、いまはなきそのおんなはかんがえた。)

「まあいやだ。」と、今は亡きその女は考えた。

(「へんななまえばっかりだわ。」で、ひとびとはかのじょのきにいるようにと、)

「変な名前ばっかりだわ。」で、人々は彼女の気に入るようにと、

(こよみのべつのかしょをめくった。するとまたもやみっつのなまえがでた。)

暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。

(とりふぃーりいに、どぅーらに、わらはーしいというのである。)

トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。

(「まあ、これこそてんばつだわ!」と、あのばあさんはいったものだ。)

「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。

(「どれもこれも、みんななんというなまえでしょう!)

「どれもこれも、みんななんという名前でしょう!

(わたしゃほんとうにそんななまえって、ついぞきいたこともありませんよ、)

わたしゃほんとうにそんな名前って、ついぞ聞いたこともありませんよ、

(わらだーととか、わるーふとでもいうのならまだしも、)

ワラダートとか、ワルーフとでもいうのならまだしも、

(とりふぃーりいだのわらはーしいだなんて!」そこでまたこよみのぺーじをめくると、)

トリフィーリイだのワラハーシイだなんて!」そこでまた暦の頁をめくると、

(こんどはぱふしかーひいにわふちーしいというのがでた。)

今度はパフシカーヒイにワフチーシイというのが出た。

(「ああ、もうわかりました!」とばあさんはいった。)

「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。

(「これが、このこのうんめいなんでしょうよ。そんなくらいなら、)

「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、

(いっそのこと、このこのちちおやのなまえをとってつけたほうがましですわ。)

いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。

(ちちおやはあかーきいでしたから、むすこもやはりあかーきいにしておきましょう。」)

父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。」

(こんなふうにしてあかーきい・あかーきえうぃっちというなまえは)

こんなふうにしてアカーキイ・アカーキエウィッチという名前は

(できあがったのである。)

できあがったのである。

(そこであかんぼうはせんれいをうけたが、そのときかれはわっとなきだして、)

そこで赤ん坊は洗礼を受けたが、その時彼はわっと泣き出して、

(あたかもしょうらいきゅうとうかんになることをよかんでもしたようなしかめっつらをした。)

あたかも将来九等官になることを予感でもしたようなしかめ面をした。

(ようするにことのおこりはすべてこんなぐあいであったのである。)

要するに事のおこりはすべてこんな具合であったのである。

(こんなことをくだくだしくならべたのも、これがばんやむをえぬじじょうからしょうじたことで、)

こんな事をくだくだしく並べたのも、これが万やむを得ぬ事情から生じた事で、

(どうしてもほかにはなまえのつけようがなかったといういきさつを、)

どうしてもほかには名前のつけようがなかったといういきさつを、

(どくしゃにとくとりょうかいしていただきたいためにほかならないのである。)

読者にとくと了解していただきたいためにほかならないのである。

(いつ、どういうときに、かれがかんちょうにはいったのか、またなんぴとがかれをにんめいしたのか、)

いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また何人が彼を任命したのか、

(そのてんについてはだれひとりきおくしているものがなかった。)

その点については誰ひとり記憶している者がなかった。

(きょくちょうや、もろもろのかちょうづれがいくにんとなくこうてつしても、)

局長や、もろもろの課長連が幾人となく更迭しても、

(かれはあいもかわらずおなじせきで、おなじちいで、おなじやくがらの、)

彼は相も変らず同じ席で、同じ地位で、同じ役柄の、

(じゅうねんいちにちのごときぶんしょかかりをつとめていたので、しまいにはみんなが、)

十年一日の如き文書係を勤めていたので、しまいにはみんなが、

(てっきりこのおとこはちゃんとせいふくをみにつけ、はげあたまをふりかざして、)

てっきりこの男はちゃんと制服を身につけ、禿げ頭を振りかざして、

(すっかりよういをしてこのよへうまれてきたものにちがいないと)

すっかり用意をしてこの世へ生まれてきたものにちがいないと

(おもいこんでしまったほどである。)

思いこんでしまったほどである。

(やくしょでは、かれにたいしてはすこしのそんけいもはらわれなかった。)

役所では、彼に対しては少しの尊敬も払われなかった。

(かれがそばをとおってもしゅえいたちはきりつするどころか、)

彼がそばを通っても守衛たちは起立するどころか、

(げんかんをたかだかはえでもとびすぎたくらいにしかおもわず、)

玄関をたかだか蠅でも飛び過ぎたくらいにしか思わず、

(かれのほうをふりむいてみようともしなかった。)

彼の方をふり向いてみようともしなかった。

(かちょうづれはかれにたいしてみょうにひややかなあっせいてきなたいどをとった。)

課長連は彼に対して妙に冷やかな圧制的な態度をとった。

(「せいしょしてくれたまえ。」とか、)

「清書してくれたまえ。」とか、

(「こいつはなかなかおもしろい、ちょっといいしょるいだよ。」とか、)

「こいつはなかなか面白い、ちょっといい書類だよ。」とか、

(またはおよそれいぎただしいつとめにんのあいだでふつうにとりかわされている)

またはおよそ礼儀正しい勤め人の間で普通にとりかわされている

(なにかちょっとしたおあいそひとついうでもなく、)

何かちょっとしたお愛想ひとつ言うでもなく、

(いきなりかれのはなさきへしょるいをつきつけるのであった。)

いきなり彼の鼻先へ書類をつきつけるのであった。

(すると、かれはちらとしょるいのほうをみるだけで、いったいだれがそれをさしだしたのやら、)

すると、彼はちらと書類のほうを見るだけで、一体誰がそれを差出したのやら、

(あいてにはたしてそうするけんりがあるのやら、)

相手にはたしてそうする権利があるのやら、

(そんなことにはいっこうとんちゃくなく、それをうけとる。)

そんなことにはいっこう頓着なく、それを受け取る。

(うけとると、さっそくそのしょるいのうつしにとりかかったものである。)

受け取ると、早速その書類の写しにとりかかったものである。

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