外套 - 2

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原作:ニコライ・ゴーゴリ 訳:平井肇

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問題文

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(わかいかんりどもは、そのぞくりょうてきなだじゃれのかぎりをつくしてかれをからかったりひやかしたり、)

若い官吏共は、その属僚的な駄洒落の限りを尽して彼を揶揄ったり冷かしたり、

(かれのいるまえでかれについてのいろんなでたらめなつくりばなしをしたものである。)

彼のいる前で彼についてのいろんな出鱈目な作り話をしたものである。

(かれのいるげしゅくのしゅふでななじゅうにもなるろうばのはなしをもちだして、)

彼のいる下宿の主婦で七十にもなる老婆の話を持ち出して、

(そのばあさんがかれをいつもぶつのだといったり、)

その婆さんが彼をいつも殴つのだと言ったり、

(おふたりのこんれいはいつですかとたずねたり、)

お二人の婚礼はいつですかと訊ねたり、

(ゆきだといって、かれのあたまへかみきれをふりかけたりなどもした。)

雪だといって、彼の頭へ紙きれを振りかけたりなどもした。

(しかし、あかーきい・あかーきえうぃっちは、)

しかし、アカーキイ・アカーキエウィッチは、

(まるでじぶんのめのまえにはだれひとりいないもののように、)

まるで自分の眼の前には誰ひとりいないもののように、

(そんなことにはうんともすんともくちごたえひとつしなかった。)

そんなことにはうんともすんとも口答え一つしなかった。

(こんなことはかれのしつむにはいっこうさしつかえなかったのである。)

こんなことは彼の執務には一向さしつかえなかったのである。

(そうしたいろんなうるさいじゃまをされながらも、)

そうしたいろんなうるさい邪魔をされながらも、

(かれはただのひとつもしょるいにかきそこないをしなかった。)

彼はただの一つも書類に書き損ないをしなかった。

(ただあまりいたずらがすぎたり、しごとをさせまいとして)

ただ余り悪戯が過ぎたり、仕事をさせまいとして

(ひじをつっついたりされるときにだけ、かれははじめてくちをひらくのである。)

肘を突っついたりされる時にだけ、彼は初めて口を開くのである。

(「かまわないでください!なんだってそんなにひとをばかにするんです?」)

「かまわないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」

(それにしても、かれのことばとそのおんせいとには、いっしゅいようなひびきがあった。)

それにしても、彼の言葉とその音声とには、一種異様な響きがあった。

(それには、なにかしらひとのこころにうったえるものがこもっていたので、)

それには、何かしら人の心に訴えるものがこもっていたので、

(ついちかごろにんめいされたばかりのひとりのわかいおとこなどは、)

つい近ごろ任命されたばかりの一人の若い男などは、

(みようみまねで、ふとかれをからかおうとしかけたけれど、)

見様見真似で、ふと彼を揶揄おうとしかけたけれど、

(とむねをつかれたように、きゅうにそれをちゅうししたほどで、)

と胸を突かれたように、急にそれを中止したほどで、

など

(それいらいこのわかもののめには、あだかもすべてがいっぺんして、)

それ以来この若者の眼には、あだかも凡てが一変して、

(まえとはぜんぜんべつなものにみえるようになったくらいである。)

前とは全然別なものに見えるようになったくらいである。

(かれがそれまでじょさいのないよなれたひとたちだとおもってこうさいしていたどうりょうたちから、)

彼がそれまで如才のない世慣れた人たちだと思って交際していた同僚たちから、

(あるちょうしぜんてきなちからがかれをおしへだててしまった。)

ある超自然的な力が彼を押し隔ててしまった。

(それからながいあいだというもの、きわめてゆかいなときにさえも、)

それから長いあいだというもの、きわめて愉快な時にさえも、

(あの「かまわないでください!なんだってそうひとをばかにするんです?」と、)

あの「かまわないで下さい! 何だってそう人を馬鹿にするんです?」と、

(むねにしみいるようなねをあげた、ひたいのはげあがった、)

胸に滲み入るような音をあげた、額の禿げあがった、

(ちんちくりんなかんりのすがたがおもいだされてならなかった。)

ちんちくりんな官吏の姿が思い出されてならなかった。

(しかもそのむねにしみいるようなことばのなかから、)

しかもその胸に滲み入るような言葉の中から、

(「わたしだってきみのどうほうなんだよ。」というべつなことばがひびいてきた。)

「わたしだって君の同胞なんだよ。」という別な言葉が響いてきた。

(で、あわれなこのわかものはおもわずかおをおおった。)

で、哀れなこの若者は思わず顔を蔽った。

(そのごながいしょうがいのあいだにもいくどとなく、)

その後ながい生涯のあいだにも幾度となく、

(にんげんのないしんにはいかにおおくのはくじょうなものがあり、)

人間の内心にはいかに多くの薄情なものがあり、

(せんれんされたきょうようあるじょさいなさのなかに、しかも、ああ!)

洗練された教養ある如才なさの中に、而も、ああ!

(せけんでじょうひんなせいれんのしとみなされているようなにんげんのないぶにすら、)

世間で上品な清廉の士と見做されているような人間の内部にすら、

(いかにおおくのきょうあくなやせいがひそんでいるかをみて、)

如何に多くの凶悪な野性が潜んでいるかを見て、

(かれはせんりつをきんじえなかったものである。)

彼は戦慄を禁じ得なかったものである。

(こんなにじぶんのしょくむをごしょうだいじにいきてきたにんげんがはたしてどこにあるだろうか。)

こんなに自分の職務を後生大事に生きてきた人間が果してどこにあるだろうか。

(ねっしんにつとめていたというだけではいいたりない。)

熱心に勤めていたというだけでは言い足りない。

(それどころか、かれはきんむにねつあいをもっていたのである。)

それどころか、彼は勤務に熱愛をもっていたのである。

(かれにはこのしゃじというしごとのなかに、せんぺんばんかの、)

彼にはこの写字という仕事の中に、千変万化の、

(たのしいいっしゅのせかいがみえていたのである)

愉しい一種の世界が見えていたのである

(かれのかおには、いつもよろこびのいろがうかんでいた。)

彼の顔には、いつも悦びの色が浮かんでいた。

(あるしゅのもじにいたってはひじょうなおきにいりで、)

ある種の文字に至っては非常なお気に入りで、

(そういうもじにでくらわすというと、もうわれをわすれてしまい、)

そういう文字に出喰わすというと、もう我を忘れてしまい、

(にやにやわらったりめくばせをしたり、おまけにくちびるまでもてつだいにひっぱりだすので、)

にやにや笑ったり眴せをしたり、おまけに唇までも手伝いに引っぱり出すので、

(そのかおさえみていれば、かれのぺんがかきあらわしているあらゆるもじを)

その顔さえ見ていれば、彼のペンが書き表わしているあらゆる文字を

(いちいちよみとることもできそうであった。)

一々読みとることもできそうであった。

(もしもかれのせいれいかっきんにそうおうしたほうしゅうがあたえられたとしたら、)

もしも彼の精励恪勤に相応した報酬が与えられたとしたら、

(かれじしんはびっくりぎょうてんしたことであろうけれど、)

彼自身は吃驚仰天したことであろうけれど、

(おそらくごとうかんにはほせられていたにちがいない。)

恐らく五等官には補せられていたに違いない。

(ところがとうのかれがかちえたところのものは、ほかならぬおのれのどうりょうたち、)

ところが当の彼が贏ち得たところのものは、他ならぬ己れの同僚たち、

(くちさがないれんちゅうのいいぐさではないが、)

口性ない連中の言い草ではないが、

(むねにはびじょう、こしにはじしつにすぎなかった。)

胸には鉸具、腰には痔疾にすぎなかった。

(とはいえ、かれにたいしてなにのちゅういもはらわれなかったというわけではない。)

とはいえ、彼に対して何の注意も払われなかったというわけではない。

(あるちょうかんはしんせつなひとで、かれのえいねんのせいれいにむくいんがために)

或る長官は親切な人で、彼の永年の精励に報いんがために

(ありきたりのしゃじよりはなにかもうすこしいぎのあるしごとをさせるようにとめいじた。)

ありきたりの写字よりは何かもう少し意義のある仕事をさせるようにと命じた。

(そこで、すでにさくせいずみのしょるいのなかから、)

そこで、既に作製ずみの書類の中から、

(ほかのやくしょへおくるためのひとつのほうこくしょをつくるしごとがかれにめいぜられたのである。)

他の役所へ送るための一つの報告書をつくる仕事が彼に命ぜられたのである。

(それはたんにひょうだいをかきあらためて、ところどころ、)

それは単に表題を書き改めて、ところどころ、

(どうしをいちにんしょうからさんにんしょうにおきかえるだけのしごとであった。)

動詞を一人称から三人称に置き換えるだけの仕事であった。

(ところが、かれにはそれがもってのほかのおおしごとで、すっかりあせだくになり、)

ところが、彼にはそれが以ての他の大仕事で、すっかり汗だくになり、

(ひたいをふきふき、とうとうしまいには、)

額を拭き拭き、とうとうしまいには、

(「いや、これよりわたしにはやっぱりなにかうつしものをさせてください。」)

「いや、これよりわたしにはやっぱり何か写しものをさせて下さい。」

(とひめいをあげてしまった。)

と悲鳴をあげてしまった。

(で、かれはずっとそのときいらい、あいもかわらぬひっせいとしてのこされたのである。)

で、彼はずっとその時以来、相も変らぬ筆生として残されたのである。

(どうやらかれにはこのうつしものいがいにはなにひとつしごとがなかったもののようである)

どうやら彼にはこの写しもの以外には何一つ仕事がなかったもののようである

(かれはじぶんのふくそうのことなどはまるでこころにもとめなかった。)

彼は自分の服装のことなどはまるで心にもとめなかった。

(かれのきているせいふくといえば、みどりいろがあせてへんなにんじんにかびがはえたような)

彼の著ている制服といえば、緑色が褪せて変な人参に黴が生えたような

(いろをしていた。それにえりがせまくてひくかったため、)

色をしていた。それに襟が狭くて低かったため、

(かれのくびはそれほどながいほうではなかったけれど、えりからにゅうとぬけだして、)

彼の頸はそれほど長い方ではなかったけれど、襟からにゅうと抜け出して、

(れいのがいこくじんをきどったろしあじんがいくそとなくあたまにのせてうりあるく、)

例の外国人をきどったロシア人が幾十となく頭にのせて売り歩く、

(あのせっこうざいくのくびふりねこのように、おそろしくながくみえた。)

あの石膏細工の首振り猫のように、おそろしく長く見えた。

(それにまた、かれのせいふくには、いつもきまって、)

それにまた、彼の制服には、いつもきまって、何なりかなり、

(なにかほしくさのきれっぱしとかいとくずといったものがこびりついていた。)

乾草の切れっぱしとか糸くずといったものがこびり附いていた。

(おまけにかれはまちをあるくのに、ちょうどまどさきからいろんなごみくたを)

おまけに彼は街を歩くのに、ちょうど窓先からいろんな芥屑を

(なげすてるときをみはからって、そのしたをとおるというたえなくせがあった。)

投げすてる時を見計らって、その下を通るという妙な癖があった。

(そのために、かれのぼうしにはいつも、ぱんくずだの、まくわうりのかわだのといった、)

そのために、彼の帽子にはいつも、パン屑だの、甜瓜の皮だのといった、

(いろんなくだらないものがひっかかっていた。)

いろんなくだらないものが引っかかっていた。

(かれはうまれてこのかたただのいちども、ひび、まちなかでくりかえされている)

彼は生まれてこの方ただの一度も、日々、街中で繰り返されている

(できごとなどにはちゅういをむけたこともなかったが、しってのとおり、)

出来事などには注意を向けたこともなかったが、知ってのとおり、

(かれのどうりょうのとしわかいかんりなどは、むこうがわのほみちをあるいているひとが)

彼の同僚の年若い官吏などは、向こう側の歩道を歩いている人が

(ずぼんのすそのとめひもをほころばしているのさえみのがさないくらいめがはやくて、)

ズボンの裾の止め紐を綻ばしているのさえ見遁さないくらい眼が敏くて、

(そういったものをみつけると、いつもそのかおにずるいうすわらいをうかべたものである)

そういったものを見つけると、いつもその顔に狡い薄笑いを浮かべたものである

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