押絵と旅する男2
2005(平成17)年1月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第三巻」平凡社
1932(昭和7)年1月
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2016年1月1日作成
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問題文
(うおづのえきからうえのへのきしゃにのったのは、)
魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、
(ゆうがたのろくじごろであった。)
夕方の六時頃であった。
(ふしぎなぐうぜんであろうか、)
不思議な偶然であろうか、
(あのへんのきしゃはいつでもそうなのか、)
あの辺の汽車はいつでもそうなのか、
(わたしののったにとうしゃは、きょうかいどうのようにがらんとしていて、)
私の乗った二等車は、教会堂の様にガランとしていて、
(わたしのほかにたったひとりのせんきゃくが、)
私の外にたった一人の先客が、
(むこうのすみのくっしょんにうずくまっているばかりであった。)
向うの隅のクッションに蹲っているばかりであった。
(きしゃはさびしいかいがんの、けわしいがけやすなはまのうえを、)
汽車は淋しい海岸の、けわしい崕や砂浜の上を、
(たんちょうなきかいのおとをひびかせて、はてしもなくはしっている。)
単調な機械の音を響かせて、際しもなく走っている。
(ぬまのようなかいじょうの、もやのおくふかく、)
沼の様な海上の、靄の奥深く、
(くろちのいろのゆうやけが、ぼんやりとかんじられた。)
黒血の色の夕焼が、ボンヤリと感じられた。
(いようにおおきくみえるしらほが、そのなかを、ゆめのようにすべっていた。)
異様に大きく見える白帆が、その中を、夢の様に滑っていた。
(すこしもかぜのない、むしむしするひであったから、)
少しも風のない、むしむしする日であったから、
(ところどころひらかれたきしゃのまどから、しんこうにつれてしのびこむそよかぜも、)
所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、
(ゆうれいのようにしりきれとんぼであった。)
幽霊の様に尻切れとんぼであった。
(たくさんのみじかいとんねるとゆきよけのはしらのれつが、)
沢山の短いトンネルと雪除けの柱の列が、
(こうばくたるはいいろのそらとうみとを、しまめにくぎってとおりすぎた。)
広漠たる灰色の空と海とを、縞目に区切って通り過ぎた。
(おやしらずのだんがいをつうかするころ、)
親不知の断崖を通過する頃、
(しゃないのでんとうとそらのあかるさとがおなじにかんじられたほど、)
車内の電燈と空の明るさとが同じに感じられた程、
(ゆうやみがせまってきた。)
夕闇が迫って来た。
(ちょうどそのじぶんむこうのすみのたったひとりのどうじょうしゃが、)
丁度その時分向うの隅のたった一人の同乗者が、
(とつぜんたちあがって、くっしょんのうえにおおきなくろじゅすのふろしきをひろげ、)
突然立上って、クッションの上に大きな黒繻子の風呂敷を広げ、
(まどにたてかけてあった、にしゃくにさんしゃくほどの、へんぺいなにもつを、)
窓に立てかけてあった、二尺に三尺程の、扁平な荷物を、
(そのなかへつつみはじめた。)
その中へ包み始めた。
(それがわたしになんとやらきみょうなかんじをあたえたのである。)
それが私に何とやら奇妙な感じを与えたのである。
(そのへんぺいなものは、たぶんがくにそういないのだが、)
その扁平なものは、多分額に相違ないのだが、
(それのおもてがわのほうを、なにかとくべつのいみでもあるらしく、)
それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、
(まどがらすにむけてたてかけてあった。)
窓ガラスに向けて立てかけてあった。
(いちどふろしきにつつんであったものを、わざわざとりだして、)
一度風呂敷に包んであったものを、態々取出して、
(そんなふうにそとにむけてたてかけたものとしかかんがえられなかった。)
そんな風に外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。
(それに、かれがふたたびつつむときにちらとみたところによると、)
それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、
(がくのひょうめんにえがかれたごくさいしきのえが、みょうになまなましく、)
額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、
(なんとなくよのつねならずみえたことであった。)
何となく世の常ならず見えたことであった。
(わたしはあらためて、このへんてこなにもつのもちぬしをかんさつした。)
私は更めて、この変てこな荷物の持主を観察した。
(そして、もちぬしそのひとが、にもつのいようさにもまして、)
そして、持主その人が、荷物の異様さにもまして、
(いちだんといようであったことにおどろかされた。)
一段と異様であったことに驚かされた。
(かれはひじょうにこふうな、われわれのちちおやのわかいじぶんのいろあせたしゃしんでしか)
彼は非常に古風な、我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか
(みることのできないような、えりのせまい、かたのすぼけた、)
見ることの出来ない様な、襟の狭い、肩のすぼけた、
(くろのせびろふくをきていたが、)
黒の背広服を着ていたが、
(しかしそれが、せがたかくて、あしのながいかれに、)
併しそれが、背が高くて、足の長い彼に、
(みょうにしっくりとあって、はなはだいきにさえみえたのである。)
妙にシックリと合って、甚だ意気にさえ見えたのである。
(かおはほそおもてで、りょうめがすこしぎらぎらしすぎていたほかは、)
顔は細面で、両眼が少しギラギラし過ぎていた外は、
(いったいによくととのっていて、すまーとなかんじであった。)
一体によく整っていて、スマートな感じであった。
(そして、きれいにわけたとうはつが、ゆたかにくろぐろとひかっているので、)
そして、綺麗に分けた頭髪が、豊に黒々と光っているので、
(いっけんよんじゅうぜんごであったが、よくちゅういしてみると、)
一見四十前後であったが、よく注意して見ると、
(かおじゅうにおびただしいしわがあって、)
顔中に夥しい皺があって、
(ひとっとびにろくじゅうくらいにもみえぬことはなかった。)
一飛びに六十位にも見えぬことはなかった。
(このくろぐろとしたとうはつと、いろじろのがんめんをじゅうおうにきざんだしわとのたいしょうが、)
この黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ皺との対照が、
(はじめてそれにきづいたとき、わたしをはっとさせたほども、)
初めてそれに気附いた時、私をハッとさせた程も、
(ひじょうにぶきみなかんじをあたえた。)
非常に不気味な感じを与えた。
(かれはていねいににもつをつつみおわると、)
彼は叮嚀に荷物を包み終ると、
(ひょいとわたしのほうにかおをむけたが、)
ひょいと私の方に顔を向けたが、
(ちょうどわたしのほうでもねっしんにあいてのどうさをながめていたときであったから、)
丁度私の方でも熱心に相手の動作を眺めていた時であったから、
(ふたりのしせんががっちりとぶっつかってしまった。)
二人の視線がガッチリとぶっつかってしまった。
(すると、かれはなにかはずかしそうにくちびるのすみをまげて、)
すると、彼は何か恥かし相に唇の隅を曲げて、
(かすかにわらってみせるのであった。)
幽かに笑って見せるのであった。
(わたしもおもわずくびをうごかしてあいさつをかえした。)
私も思わず首を動かして挨拶を返した。
(それから、しょうえきをにさんつうすぎするあいだ、)
それから、小駅を二三通過する間、
(わたしたちはおたがいのすみにすわったまま、とおくから、ときどきしせんをまじえては、)
私達はお互の隅に坐ったまま、遠くから、時々視線をまじえては、
(きまずくそっぽをむくことを、くりかえしていた。)
気まずく外方を向くことを、繰返していた。
(そとはまったくくらやみになっていた。)
外は全く暗闇になっていた。
(まどがらすにかおをおしつけてのぞいてみても、)
窓ガラスに顔を押しつけて覗いて見ても、
(ときたまおきのぎょせんのげんとうがとおくとおくぽっつりとうかんでいるほかには、)
時たま沖の漁船の舷燈が遠く遠くポッツリと浮んでいる外には、
(まったくなんのひかりもなかった。はてしのないくらやみのなかに、)
全く何の光りもなかった。際涯のない暗闇の中に、
(わたしたちのほそながいしゃしつだけが、たったひとつのせかいのように、)
私達の細長い車室丈けが、たった一つの世界の様に、
(いつまでもいつまでも、がたんがたんとうごいていった。)
いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。
(そのほのぐらいしゃしつのなかに、わたしたちふたりだけをとりのこして、)
そのほの暗い車室の中に、私達二人丈けを取り残して、
(ぜんせかいが、あらゆるいきものが、)
全世界が、あらゆる生き物が、
(あとかたもなくきえうせてしまったかんじであった。)
跡方もなく消え失せてしまった感じであった。
(わたしたちのにとうしゃには、どのえきからもひとりのじょうきゃくもなかったし、)
私達の二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、
(れっしゃぼーいやしゃしょうもいちどもすがたをみせなかった。)
列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。
(そういうこともいまになってかんがえてみると、)
そういう事も今になって考えて見ると、
(はなはだきかいにかんじられるのである。)
甚だ奇怪に感じられるのである。
(わたしは、よんじゅうさいにもろくじゅうさいにもみえる、)
私は、四十歳にも六十歳にも見える、
(せいようのまじゅつしのようなふうさいのそのおとこが、だんだんこわくなってきた。)
西洋の魔術師の様な風采のその男が、段々怖くなって来た。
(こわさというものは、ほかにまぎれることがらのないばあいには、)
怖さというものは、外にまぎれる事柄のない場合には、
(むげんにおおきく、からだじゅういっぱいにひろがっていくものである。)
無限に大きく、身体中一杯に拡がって行くものである。
(わたしはついには、うぶげのさきまでもこわさがみちて、)
私は遂には、産毛の先までも怖さが満ちて、
(たまらなくなって、とつぜんたちあがると、むこうのすみのそのおとこのほうへ)
たまらなくなって、突然立上ると、向うの隅のその男の方へ
(つかつかとあるいていった。)
ツカツカと歩いて行った。
(そのおとこがいとわしく、おそろしければこそ、)
その男がいとわしく、恐ろしければこそ、
(わたしはそのおとこにちかづいていったのであった。)
私はその男に近づいて行ったのであった。