夏目漱石 明暗(2)

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タグ文庫 小説
夏目漱石 明暗(2-1)
夏目漱石 明暗(2-1)
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1 A.N 6708 S+ 6.8 97.9% 461.2 3160 66 58 2024/12/10
2 ヌオー 5635 A 5.9 94.5% 531.3 3178 184 58 2024/11/27

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問題文

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(でんしゃにのったときのかれのきぶんはしずんでいた。)

電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。

(みうごきのならないほどきゃくのこみあうなかで、かれはつりかわにぶらさがりながら)

身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下りながら

(ただじぶんのことばかりかんがえた。きょねんのとうつうがありありときおくのぶたいにのぼった。)

ただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛がありありと記憶の舞台に上った。

(しろいべっどのうえによこたえられたむざんなじぶんのすがたがあきらかにみえた。)

白いベッドの上に横えられた無残な自分の姿が明かに見えた。

(くさりをきってにげることができないときに)

鎖を切って逃げる事ができない時に

(いぬのだすようなじぶんのうなりごえがはっきりきこえた。)

犬の出すような自分の唸り声が判然り聴えた。

(それからつめたいはもののひかりと、それがたがいにふれあうおとと、)

それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、

(さいごにとつぜんりょうほうのはいぞうからいちどにくうきをしぼりだすようなおそろしいちからのあっぱくと、)

最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出すような恐ろしい力の圧迫と、

(あっされたくうきがあっされながらにしゅうしゅくすることができないためにおこるとしか)

圧された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか

(おもわれないはげしいくつうとがかれのきおくをおそった。)

思われない劇しい苦痛とが彼の記憶を襲った。

(かれはふゆかいになった。きゅうにきをかえてじぶんのしゅういをながめた。)

彼は不愉快になった。急に気を換えて自分の周囲を眺めた。

(しゅういのものはかれのそんざいにすらきがつかずにみんなすましていた。)

周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。

(かれはまたかんがえつづけた。)

彼はまた考えつづけた。

(「どうしてあんなくるしいめにあったんだろう」)

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

(あらかわつつみへはなみにいったかえりみちから)

荒川堤へ花見に行った帰り途から

(いずらのよこくなしにとっぱつしたとうじのとうつうについて、)

何らの予告なしに突発した当時の疼痛について、

(かれはまったくのめくらであった。)

彼は全くの盲目漢であった。

(そのげんいんはあらゆるそうぞうのほかにあった。)

その原因はあらゆる想像のほかにあった。

(ふしぎというよりもむしろおそろしかった。)

不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

(「このにくたいはいつなんどきどんなへんにあわないともかぎらない。)

「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。

など

(それどころか、いまげんにどんなへんがこのにくたいのうちにおこりつつあるかもしれない。)

それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。

(そうしてじぶんはまったくしらずにいる。おそろしいことだ」)

そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

(ここまではたらいてきたかれのあたまはそこでとまることができなかった。)

ここまで働いて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。

(どっとあとからつきおとすようないきおいで、)

どっと後から突き落すような勢で、

(かれをまえのほうにおしやった。とつぜんかれはこころのなかでさけんだ。)

彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中で叫んだ。

(「せいしんかいもおなじことだ。せいしんかいもまったくおなじことだ。いつどうかわるかわからない。)

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。

(そうしてそのかわるところをおれはみたのだ」)

そうしてその変るところをおれは見たのだ」

(かれはおもわずくちびるをかたくむすんで、)

彼は思わず唇を固く結んで、

(あたかもじそんしんをきずつけられたひとのようなめをかれのしゅういにむけた。)

あたかも自尊心を傷けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。

(けれどもかれのこころのうちになにごとがおこりつつあるかをまるでしらないしゃちゅうのじょうきゃくは、)

けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、

(かれのめづかいにたいしてすこしのちゅういもはらわなかった。)

彼の眼遣に対して少しの注意も払わなかった。

(かれのあたまはかれののっているでんしゃのように、)

彼の頭は彼の乗っている電車のように、

(じぶんじしんのきどうのうえをはしってまえへすすむだけであった。)

自分自身の軌道の上を走って前へ進むだけであった。

(かれはにさんにちまえあるともだちからきいたぽあんかれーのはなしをおもいだした。)

彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。

(かれのために「ぐうぜん」のいみをせつめいしてくれたそのともだちはかれにむかってこういった。)

彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。

(「だからきみ、ふつうせけんでぐうぜんだぐうぜんだという、)

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、

(いわゆるぐうぜんのできごとというのは、ぽあんかれーのせつによると、)

いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、

(げんいんがあまりにふくざつすぎてちょっとけんとうがつかないときにいうのだね。)

原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。

(なぽれおんがうまれるためにはあるとくべつのたまごとあるとくべつのせいちゅうのはいごうがひつようで、)

ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、

(そのひつようなはいごうができうるためには、)

その必要な配合が出来得るためには、

(またどんなじょうけんがひつようであったかとかんがえてみると、)

またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、

(ほとんどそうぞうがつかないだろう」)

ほとんど想像がつかないだろう」

(かれはともだちのことばを、たんにあたえられたあたらしいちしきのだんぺんとして)

彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として

(ききながすわけにいかなかった。)

聞き流す訳に行かなかった。

(かれはそれをぴたりとじぶんのみのうえにあてはめてかんがえた。)

彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て篏めて考えた。

(するとくらいふかしぎなちからがみぎにいくべきかれをひだりにおしやったり、)

すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、

(まえにすすむべきかれをうしろにひきもどしたりするようにおもえた。)

前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。

(しかもかれはついぞいままでじぶんのこうどうについてほかからけんせいをうけたおぼえがなかった。)

しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚がなかった。

(することはみんなじぶんのちからでし、いうことは)

する事はみんな自分の力でし、言う事は

(ことごとくじぶんのちからでいったにそういなかった。)

ことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

(「どうしてあのおんなはあすこへよめにいったのだろう。)

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。

(それはじぶんでいこうとおもったからいったにたがいない。)

それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。

(しかしどうしてもあすこへよめにいくはずではなかったのに。)

しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。

(そうしてこのおれはまたどうしてあのおんなとけっこんしたのだろう。)

そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。

(それもおれがもらおうとおもったからこそけっこんがせいりつしたにたがいない。)

それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。

(しかしおれはいまだかつてあのおんなをもらおうとはおもっていなかったのに。)

しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。

(ぐうぜん?ぽあんかれーのいわゆるふくざつのきょくち?なんだかわからない」)

偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

(かれはでんしゃをおりてかんがえながらたくのほうへあるいていった。)

彼は電車を降りて考えながら宅の方へ歩いて行った。

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