カラマーゾフの兄弟8
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
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1 | tosi73 | 2679 | E | 3.1 | 86.3% | 1946.3 | 6192 | 976 | 94 | 2024/11/07 |
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問題文
(そふぃやいわーのヴながなくなってちょうど3かげつめに、ふいに、)
ソフィヤ・イワーノヴナが亡くなってちょうど三か月目に、不意に、
(しょうぐんふじんはみずからこのまちにすがたをあらわして、まっすぐにふょーどるぱ)
将軍夫人はみずからこの町に姿を現わして、まっすぐにフョードル・パ
(ーヴろヴぃっちのいえへのりこんだ。ふじんがこのまちにいたのはやっとはんとき)
ーヴロヴィッチの家へ乗りこんだ。夫人がこの町にいたのはやっと半時
(かんほどであったが、かのじょはおおくのことをなしとげた。それはひのくれがた)
間ほどであったが、彼女は多くのことを成しとげた。それは日の暮れ方
(のことであった。かのじょがこの8ねんというものたえてあわなかったふょー)
のことであった。彼女がこの八年というもの絶えて会わなかったフョー
(どるぱーヴろヴぃっちはよいしれてふじんのまえにでた。すると、ふじんは)
ドル・パーヴロヴィッチは酔いしれて夫人の前に出た。すると、夫人は
(なにひとつものをいわずに、かれのかおをみるなり、ききめのある、おとのいいほおだ)
何一つ物を言わずに、彼の顔を見るなり、きき目のある、音のいい頬打
(ちをふたつばかりくらわしておいて、かみのけをつかむと、3どばかり、うえか)
ちを二つばかり食わしておいて、髪の毛をつかむと、三度ばかり、上か
(らかへひきむしった。それから、くちもきかないで、さっさとふたりのこども)
ら下へ引きむしった。それから、口もきかないで、さっさと二人の子供
(のいるげなんこやへおもむいた。かれらがゆもつかっていないうえに、よごれ)
のいる下男小屋へおもむいた。彼らが湯も使っていないうえに、よごれ
(きったしゃつをきているのをひとめでみてとると、いきなりふじんはまたぐ)
きったシャツを着ているのを一目で見てとると、いきなり夫人はまたグ
(りごりいにほおうちをくらわして、こどもをふたりともじぶんのいえへつれていくと)
リゴリイに頬打ちを食わして、子供を二人とも自分の家へ連れて行くと
(せんげんした。そして、ふたりをきのみきのままでひざかけのもうふにくるんで、)
宣言した。そして、二人を着のみ着のままで膝かけの毛布にくるんで、
(ばしゃにのせてじぶんのまちへとつれてかえった。ぐりごりいはちゅうじつなどれいのよ)
馬車に乗せて自分の町へと連れて帰った。グリゴリイは忠実な奴隷のよ
(うに、このほおうちをたえしのんで、ことばひとつかえさずに、ろうふじんをばしゃま)
うに、この頬打ちを耐え忍んで、ことば一つ返さずに、老夫人を馬車ま
(でみおくったとき、うやうやしくさいけいれいをしながら、しさいらしく、「かみさま)
で見送ったとき、うやうやしく最敬礼をしながら、子細らしく、『神様
(がこじみなしごたちにかわってあなたさまにおれいをしてくださりましょう)
が孤児みなしごたちに代わってあなた様にお礼をしてくださりましょう
(」とあいさつあいさつした。しょうぐんふじんはばしゃがうごきだすと、「それにしても)
』と挨拶あいさつした。将軍夫人は馬車が動き出すと、『それにしても
(やはりおまえがまぬけなのだよ!」とさけんだ。)
やはりおまえが間抜けなのだよ!』と叫んだ。
(ふょーどるぱーヴろヴぃっちはこのぜんごのじじょうをかんがえてみて、なか)
フョードル・パーヴロヴィッチはこの前後の事情を考えてみて、なか
(なかけっこうなことだとおもったので、しょうぐんふじんのてもとでこどもをよういくするけん)
なか結構なことだと思ったので、将軍夫人の手もとで子供を養育する件
(について、のちにせいしきにしょうだくをあたえたときにも、ただの1こうもくにさえも)
について、のちに正式に承諾を与えたときにも、ただの一項目にさえも
(いぎをもうしたてなかった。ところで、れいのほおをなぐられたけんについては)
異議を申し立てなかった。ところで、例の頬をなぐられた件については
(、じぶんからでかけてまちじゅうにふれまわったものであった。)
、自分から出かけて町じゅうに振れまわったものであった。
(やがて、このしょうぐんふじんもほどなくこのよのひとではなくなった。が、2)
やがて、この将軍夫人もほどなくこの世の人ではなくなった。が、二
(じんのこどもにそれぞれせんるーぶるずつあたえるとゆいごんした。「ふたりのきょういくひ)
人の子供にそれぞれ千ルーブルずつ与えると遺言した。『二人の教育費
(として、このきんがくをかならずふたりのためにしようすること、ただしふたりがていねん)
として、この金額を必ず二人のために使用すること、ただし二人が丁年
(にたっするまではじゅうぶんにたりるようにつかうこと。すなわち、かようなこども)
に達するまでは十分に足りるように使うこと。すなわち、かような子供
(には、これだけのおくりものにてもじゅうぶんすぎるゆえに。もっとも、なにびとた)
には、これだけの贈り物にても十分すぎるゆえに。もっとも、何びとた
(りとも、とくしのかたは、ずいいにごじぶんのさいふのひもをとかれることいっこ)
りとも、篤志のかたは、随意に御自分の財布の紐を解かれることいっこ
(うさしつかえこれなきこと」うんぬんうんぬん。じぶんはこのゆいごんじょうをよみは)
うさしつかえこれなきこと』云々うんぬん。自分はこの遺言状を読みは
(しなかったが、なんでもこんなふうにみょうな、じつにどくとくなかきかたがしてあっ)
しなかったが、なんでもこんな風に妙な、実に独特な書き方がしてあっ
(たというはなしである。ろうふじんのおもなるいさんそうぞくにんはえふぃむぺとろー)
たという話である。老夫人のおもなる遺産相続人はエフィム・ペトロー
(ヴぃっちぽれーのふというそのけんのきぞくだんちょうで、こうかどなひとであった。)
ヴィッチ・ポレーノフというその県の貴族団長で、高廉な人であった。
(ふょーどるぱーヴろヴぃっちとてがみでこうしょうをしてみると、このおとこから)
フョードル・パーヴロヴィッチと手紙で交渉をしてみると、この男から
(はとてもじっしのよういくひをひきだせないことがわかったので(もっとも、)
はとても実子の養育費を引き出せないことがわかったので(もっとも、
(あいてはけっしてあからさまにはことわりはしなかったが、いつもこんなば)
相手はけっしてあからさまには断わりはしなかったが、いつもこんな場
(あわせにはながながといっすんのがれをいったり、ときにはなきごとさえもならべるのであ)
合には長々と一寸のがれを言ったり、時には泣き言さえも並べるのであ
(った)ぽれーのふはしんみになってこじみなしごのめんどうをみることに)
った)ポレーノフは親身になって孤児みなしごのめんどうを見ることに
(した。なかでも、おとうとのあれくせいをことさらにかわいかわいがったので、あ)
した。中でも、弟のアレクセイをことさらに可愛かわいがったので、ア
(れくせいはながいあいだそのいえのかぞくとしておおきくなったものといえる。)
レクセイは長いあいだその家の家族として大きくなったものといえる。
(わたしはさいしょからこのことにちゅうもくされんことをどくしゃにおねがいする。もしわかもの)
私は最初からこのことに注目されんことを読者にお願いする。もし若者
(たちがよういくとがくもんのてんで、しょうがいをつうじて、だれかにおうところがあったと)
たちが養育と学問の点で、生涯を通じて、誰かに負うところがあったと
(すれば、それはすなわち、この、まれにみるこうけつな、にんじょうのあついえふ)
すれば、それはすなわち、この、まれに見る高潔な、人情のあついエフ
(ぃむぺとろーヴぃっちにたいしてであった。かれはしょうぐんふじんからのこされた)
ィム・ペトローヴィッチに対してであった。彼は将軍夫人から残された
(にせんるーぶるのきんを、こどもらのためにそっくりほかんしてきたので、ふたり)
二千ルーブルの金を、子供らのためにそっくり保管してきたので、二人
(がていねんにたっしようとするころにはりしがつもりつもって、それぞれ2ばい)
が丁年に達しようとするころには利子が積もり積もって、それぞれ二倍
(からになっていた。かれはじぶんのきんでふたりをよういくしたのであるが、いうま)
からになっていた。彼は自分の金で二人を養育したのであるが、いうま
(でもなく、それはひとりあたりせんるーぶるよりはずっとおおくかかっていた)
でもなく、それは一人あたり千ルーブルよりはずっと多くかかっていた
(。かれらのせいしょうねんじだいのほそぼそしたはなしにはいることはしばらくみあわせて、)
。彼らの青少年時代の細々した話にはいることはしばらく見合わせて、
(わたしはただじゅうようなてんだけをのべておくことにしよう。それにしても、あにの)
私はただ重要な点だけを述べておくことにしよう。それにしても、兄の
(いわんについては、かれがちょうずるにしたがってけっしておくびょうなわけではないが)
イワンについては、彼が長ずるに従ってけっして臆病なわけではないが
(、なんとなくきむずかしい、ひっこみじあんのしょうねんになって、10くらいの)
、なんとなく気むずかしい、引っこみ思案の少年になって、十くらいの
(ころからじぶんたちきょうだいはやはりたにんのいえで、たにんのおなさけでそだってい)
ころから自分たち兄弟はやはり他人の家で、他人のおなさけで育ってい
(るのだ、それにじぶんたちのちちは、くちにするのもはずかしいくらいのにんげん)
るのだ、それに自分たちの父は、口にするのも恥ずかしいくらいの人間
(だなどということを、どうさつどうさつしていたらしいということだけはげん)
だなどということを、洞察どうさつしていたらしいということだけは言
(っておこう。このしょうねんはかなりにはやくから、ほとんどようねんのころから()
っておこう。この少年はかなりに早くから、ほとんど幼年のころから(
(すくなくとも、でんうるところによれば)、がくもんにたいするいっしゅのなみならぬはな)
少なくとも、伝うるところによれば)、学問に対する一種の並ならぬ華
(ばなしいのうりょくをあらわしはじめた。せいかくなことはしらないが、やっとじゅうそうくら)
々しい能力を現わし始めた。正確なことは知らないが、やっと十三くら
(いのとしにかれはえふぃむぺとろーヴぃっちのかていをはなれて、もすくわの)
いの年に彼はエフィム・ペトローヴィッチの家庭を離れて、モスクワの
(ちゅうがっこうににゅうがくし、えふぃむぺとろーヴぃっちのようなともだちで、あるけい)
中学校に入学し、エフィム・ペトローヴィッチの幼な友だちで、ある経
(げんのある、とうじのゆうめいなきょういくかのきしゅくしゃへはいったのであった。のちに)
験のある、当時の有名な教育家の寄宿舎へはいったのであった。のちに
(いわんじしんがはなしたところによると、これは、てんさいのあるこどもはてんさいの)
イワン自身が話したところによると、これは、天才のある子供は天才の
(あるきょういくかのもとできょういくされねばならぬ、というしそうにしんすいしていたえ)
ある教育家のもとで教育されねばならぬ、という思想に心酔していたエ
(ふぃむぺとろーヴぃっちの、「ぜんじにたいするねつじょうから」おこったこと)
フィム・ペトローヴィッチの、『善事に対する熱情から』起こったこと
(である。もっとも、このせいねんがちゅうがくをそつおえてだいがくへすすんだころには、)
である。もっとも、この青年が中学を卒おえて大学へ進んだころには、
(えふぃむぺとろーヴぃっちも、てんさいてきなきょういくしゃも、すでにあのよのひと)
エフィム・ペトローヴィッチも、天才的な教育者も、すでにあの世の人
(となっていた。えふぃむぺとろーヴぃっちのしょちがよろしきをえなか)
となっていた。エフィム・ペトローヴィッチの処置がよろしきを得なか
(ったばかりに、あのごうじょうもののしょうぐんふじんからゆずられて、いまではりにりがせき)
ったばかりに、あの強情者の将軍夫人から譲られて、今では利に利が積
(もってせんるーぶるからにせんるーぶるにもうえつきふえた、じぶんのこどものときぶんか)
もって千ルーブルから二千ルーブルにも殖ふえた、自分の子供の時分か
(らのきんが、このくにではなんともしようのないいろんなけいしきや、てつづきの)
らの金が、この国ではなんともしようのないいろんな形式や、手続きの
(じゅうたいのおかげでよういにうけとることができず、そのために、かれはだいがくに)
渋滞のおかげで容易に受け取ることができず、そのために、彼は大学に
(おけるさいしょの2ねんかんというもの、かなりひどいくろうをした。かれはこのあいだ)
おける最初の二年間というもの、かなりひどい苦労をした。彼はこの間
(じゅう、じかつのみちをたてながら、どうじにべんきょうをしなければならなかった)
じゅう、自活の道を立てながら、同時に勉強をしなければならなかった
(。ところが、そのころのかれが、ちちとてがみのやりとりをしてみようとさえ)
。ところが、そのころの彼が、父と手紙のやりとりをしてみようとさえ
(もかんがえなかったということはちゅういしておくひつようがある。おそらく、ごうまん)
も考えなかったということは注意しておく必要がある。おそらく、傲慢
(ごうまんなきもち、ちちにたいするけいべつのねんによるものであろう、それとも、)
ごうまんな気持、父に対する軽蔑の念によるものであろう、それとも、
(ちちからほんのわずかでもまじめなえんじょをうけるのぞみのないことをおしえる)
父からほんのわずかでもまじめな援助を受ける望みのないことを教える
(れいせいな、はっきりしたはんだんりょくによったのかもしれぬ。それはともかくと)
冷静な、はっきりした判断力によったのかもしれぬ。それはともかくと
(して、せいねんはすこしもまごつかずに、やっとのことで、しごとにありついた)
して、青年は少しもまごつかずに、やっとのことで、仕事にありついた
(。さいしょのうちは1かい20かぺいかのしゅっちょうきょうじゅをやっていたが、のちには)
。最初のうちは一回二十カペイカの出張教授をやっていたが、のちには
(、あちこちのしんぶんのへんしゅうしゃのところをかけずりまわって、「もくげきしゃ」とい)
、あちこちの新聞の編集者のところを駆けずり回って、『目撃者』とい
(うしょめいのもとに、しせいのできごとについてのじゅうぎょうきじをきこうしたりした。)
う署名のもとに、市井の出来事についての十行記事を寄稿したりした。
(このちいさいきじは、いつも、なかなかおもしろく、しんらつしんらつだった)
この小さい記事は、いつも、なかなかおもしろく、辛辣しんらつだった
(ので、たちまちひょうばんになったという。かれはこのいちじをもってしても、い)
ので、たちまち評判になったという。彼はこの一事をもってしても、い
(つもまずしいくらしをしてふしあわせなきょうぐうにある、このくにのおびただし)
つも貧しい暮らしをして不仕合わせな境遇にある、この国のおびただし
(いだんじょがくせいにくらべて、じっさいてきにもちてきにもだんぜんとうかくをあらわしていた。)
い男女学生に比べて、実際的にも知的にも断然頭角をあらわしていた。
(りょうとのがくせいたちは、たいていあさからばんまで、かくしゅのしんぶんざっしのへんしゅうしつへ)
両都の学生たちは、たいてい朝から晩まで、各種の新聞雑誌の編集室へ
(、おひゃくどをふみながら、あいもかわらぬふつぶんのほんやくだとかひっこうのくちだとか)
、お百度を踏みながら、相も変わらぬ仏文の翻訳だとか筆耕の口だとか
(を、あとからあとからとこんがんするいがいには、なんのいいしあんもうかばな)
を、あとからあとからと懇願する以外には、なんのいい思案も浮かばな
(いのである。あちこちのへんしゅうぶとちかづきになると、いわんふょーどろ)
いのである。あちこちの編集部と近づきになると、イワン・フョードロ
(ヴぃっちはそのあとも、ずっとかんけいをたたずに、だいがくをおわるころにはい)
ヴィッチはその後も、ずっと関係を絶たずに、大学を終わるころにはい
(ろんなせんもんてきなしょもつにかんするきわめてさいのうのあるひひょうをけいさいしはじめたた)
ろんな専門的な書物に関するきわめて才能のある批評を掲載し始めたた
(め、ぶんがくしゃなかまのあいだにまでゆうめいになった。)
め、文学者仲間のあいだにまで有名になった。