半七捕物帳 お文の魂1
半七捕物帳シリーズの第一作目です。
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問題文
(わたしのおじはえどのまっきにうまれたので、そのじだいにもっともおおく)
【一】 わたしの叔父は江戸の末期に生まれたので、その時代に最も多く
(おこなわれたばけものやしきのいらずのまや、ねたみぶかいおんなのいきりょうや、しゅうねんぶかいおとこの)
行われた化け物屋敷の不入の間や、妬み深い女の生き霊や、執念深い男の
(しりょうや、そうしたたぐいのいんさんなゆうかいなでんせつをたくさんしっていた。)
死霊や、そうしたたぐいの陰惨な幽怪な伝説をたくさん知っていた。
(しかもおじは「ぶしたるものがようかいなどをしんずべきものでない」という)
しかも叔父は「武士たるものが妖怪などを信ずべきものでない」という
(ぶしてききょういくのかんかから、いっさいこれをひにんしようとつとめていたらしい。)
武士的教育の感化から、一切これを否認しようと努めていたらしい。
(そのきふうはめいじいごになってもうせなかった。わたしたちがこどものときに)
その気風は明治以後になっても失せなかった。わたし達が子供のときに
(なにかとりとめのないばけものばなしなどをはじめると、おじはいつでもにがいかおをして)
何か取り留めのない化け物話などを始めると、叔父はいつでも苦い顔をして
(ろくろくあいてにもなってくれなかった。)
碌々相手にもなってくれなかった。
(そのおじがただいちどこんなことをいった。)
その叔父がただ一度こんなことを云った。
(「しかしよのなかにはわからないことがある。あのおふみのいっけんなぞは・・・・・・」)
「しかし世の中には解らないことがある。あのおふみの一件なぞは……」
(おふみのいっけんがなんであるかはだれもしらなかった。おじもじこのしゅちょうを)
おふみの一件が何であるかは誰も知らなかった。叔父も自己の主張を
(うらぎるような、このふかかいのじじつをはっぴょうするのがいかにもざんねんであったらしく、)
裏切るような、この不可解の事実を発表するのが如何にも残念であったらしく、
(それいじょうにはなにもひみつをもらさなかった。ちちにきいてもはなしてくれなかった。)
それ以上には何も秘密を洩らさなかった。父に訊いても話してくれなかった。
(しかしそのじけんのかげにはkのおじさんがひそんでいるらしいことは、おじの)
併しその事件の蔭にはKのおじさんが潜んでいるらしいことは、叔父の
(くちぶりによってほぼそうぞうされたので、わたしのおさないこうきしんはとうとうわたしをうながして)
口ぶりに因ってほぼ想像されたので、わたしの稚い好奇心はとうとう私を促して
(kのおじさんのところへはしらせた。わたしはそのときまだじゅうにであった。)
Kのおじさんのところへ奔らせた。わたしはその時まだ十二であった。
(kのおじさんは、にくえんのおじではない。ちちがめいじいぜんからこうさいしているので)
Kのおじさんは、肉縁の叔父ではない。父が明治以前から交際しているので
(わたしはおさないときからこのひとをおじさんとよびならわしていたのである。)
わたしは稚い時からこの人をおじさんと呼び慣わしていたのである。
(わたしのしつもんにたいして、kのおじさんもまんぞくなへんとうをあたえてくれなかった。)
わたしの質問に対して、Kのおじさんも満足な返答をあたえてくれなかった。
(「まあ、そんなことはどうでもいい。つまらないばけもののはなしなんぞすると、)
「まあ、そんなことはどうでもいい。つまらない化け物の話なんぞすると、
(おとうさんやおじさんにしかられる」)
お父さんや叔父さんに叱られる」
(ふだんからはなしずきのおじさんも、このもんだいについてはかたくくちをむすんで)
ふだんから話し好きのおじさんも、この問題については堅く口を結んで
(いるので、わたしもおしかえしてせんさくするてがかりがなかった。がっこうで)
いるので、わたしも押し返して詮索する手がかりが無かった。学校で
(まいにちのようにぶつりがくやすうがくをどしどしつめこまれるのにいそがしいわたしのあたまからは、)
毎日のように物理学や数学をどしどし詰め込まれるのに忙がしい私の頭からは、
(おふみというおんなのなもしだいにけむりのようにきえてしまった。それからにねんほど)
おふみという女の名も次第に煙のように消えてしまった。それから二年ほど
(たって、なんでもじゅういちがつのすえであったときおくしている。わたしががっこうから)
経って、なんでも十一月の末であったと記憶している。わたしが学校から
(かえるころからさむいあめがそぼそぼとふりだして、ひがくれるころにはかなりつよいふりに)
帰る頃から寒い雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なり強い降りに
(なった。kのおばさんはきんじょのひとにさそわれて、きょうはひるまえからしんとみざけんぶつに)
なった。Kのおばさんは近所の人に誘われて、きょうは午前から新富座見物に
(でかけたはずである。)
出かけた筈である。
(「わたしはるすばんだから、あしたのばんは、あそびにおいでよ」とまえのひに)
「わたしは留守番だから、あしたの晩は、遊びにおいでよ」と前の日に
(kのおじさんがいった。わたしはそのやくそくをまもって、ゆうはんをすますとすぐに)
Kのおじさんが云った。わたしはその約束を守って、夕飯を済ますとすぐに
(kのおじさんをたずねた。kのいえはわたしのいえからちょっけいにしてよんちょうほどしか)
Kのおじさんをたずねた。Kの家はわたしの家から直径にして四町ほどしか
(はなれていなかったが、ばしょはばんちょうで、そのころにはえどのかたみというぶけやしきの)
距れていなかったが、場所は番町で、その頃には江戸の形見という武家屋敷の
(ふるいたてものがまだとりはらわれずにのこっていて、はれたひにもなんだかかげったような)
古い建物がまだ取払われずに残っていて、晴れた日にも何だか陰ったような
(うすぐらいまちのかげをつくっていた。あめのゆうぐれはことにわびしかった。kのおじさんも)
薄暗い町の影を作っていた。雨のゆうぐれは殊にわびしかった。Kのおじさんも
(あるだいみょうやしきのもんないにすんでいたが、おそらくそのむかしはかろうとかようにんとかいう)
或る大名屋敷の門内に住んでいたが、おそらくその昔は家老とか用人とかいう
(みぶんのひとのじゅうきょであったろう。ともかくもいっけんだてになっていて、ちいさいにわには)
身分の人の住居であったろう。ともかくも一軒建てになっていて、小さい庭には
(あらいたけがきがゆいまわしてあった。)
粗い竹垣が結いまわしてあった。
(kのおじさんはやくしょからかえって、もうゆうはんをしまって、ゆからかえっていた。)
Kのおじさんは役所から帰って、もう夕飯をしまって、湯から帰っていた。
(おじさんはわたしをあいてにして、らんぷのまえでいちじかんほどもたわいもないはなしなどを)
おじさんはわたしを相手にして、ランプの前で一時間ほども他愛もない話などを
(していた。ときどきにあまどをなでるにわのやつでのおおきいはに、あまおとがぴしゃぴしゃと)
していた。時々に雨戸をなでる庭の八つ手の大きい葉に、雨音がぴしゃぴしゃと
(きこえるのも、そとのくらさをおもわせるようなよるであった。はしらにかけてあるとけいが)
きこえるのも、外の暗さを想わせるような夜であった。柱にかけてある時計が
(しちじをうつと、おじさんはふとはなしをやめてそとのあめにみみをかたむけた。)
七時を打つと、おじさんはふと話をやめて外の雨に耳を傾けた。
(「だいぶふってきたな」 「おばさんはかえりにこまるでしょう」)
「だいぶ降って来たな」 「おばさんは帰りに困るでしょう」
(「なに、くるまをむかいにやったからいい」)
「なに、人力車を迎いにやったからいい」
(こういっておじさんはまただまってちゃをのんでいたが、やがてすこしまじめになった。)
こう云っておじさんは又黙って茶を喫んでいたが、やがて少しまじめになった。
(「おい、いつかおまえがきいたおふみのはなしをこんやきかしてやろうか。ばけもののはなしは)
「おい、いつかお前が訊いたおふみの話を今夜聞かしてやろうか。化け物の話は
(こういうばんがいいもんだ。しかしおまえはおくびょうだからなあ」)
こういう晩がいいもんだ。しかしお前は臆病だからなあ」
(じっさいわたしはおくびょうであった。それでもこわいものみたさききたさに、いつも)
実際わたしは臆病であった。それでも怖い物見たさ聞きたさに、いつも
(ちいさいからだをかたくしていっしょうけんめいにかいだんをきくのがすきであった。ことにねんらいの)
小さいからだを固くして一生懸命に怪談を聞くのが好きであった。殊に年来の
(ぎもんになっているおふみのいっけんをはからずもおじさんのほうからきりだしたので、)
疑問になっているおふみの一件を測らずもおじさんの方から切り出したので、
(わたしはおもわずめをかがやかした。あかるいらんぷのしたならどんなかいだんでも)
わたしは思わず眼をかがやかした。明るいランプの下ならどんな怪談でも
(こわくないというふうに、わざとかたをそびやかしておじさんのかおをきっと)
怖くないというふうに、わざと肩をそびやかしておじさんの顔をきっと
(みあげると、しいてゆうきをよそおうようなわたしのこどもらしいたいどが、おじさんの)
みあげると、しいて勇気をよそおうような私の子供らしい態度が、おじさんの
(めにはおかしくみえたらしい。かれはしばらくだまってにやにやわらっていた。)
眼にはおかしく見えたらしい。彼はしばらく黙ってにやにや笑っていた。
(「そんならはなしてきかせるが、こわくってうちへかえれなくなったから、)
「そんなら話して聞かせるが、怖くって家へ帰れなくなったから、
(こんやはとめてくれなんていうなよ」)
今夜は泊めてくれなんて云うなよ」
(まずこうおどしておいて、おじさんはおふみのいっけんというのをしずかに)
まずこう嚇して置いて、おじさんはおふみの一件というのをしずかに
(はなしだした。)
話し出した。