半七捕物帳 お文の魂3
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問題文
(こういうことがよばんもつづいたので、おみちもふあんとふみんとにつかれはてて)
こういうことが四晩もつづいたので、お道も不安と不眠とに疲れ果てて
(しまった。はじもえんりょもかんがえてはいられなくなったので、とうとうおもいきって)
しまった。恥も遠慮も考えてはいられなくなったので、とうとう思い切って
(おっとにうったえると、おばたはわらっているばかりでとりあわなかった。しかしぬれたおんなは)
夫に訴えると、小幡は笑っているばかりで取り合わなかった。しかし濡れた女は
(そののちもおみちのまくらべをさらなかった。おみちがなんといっても、おっとはうけつけて)
その後もお道の枕辺を去らなかった。お道がなんと云っても、夫は受け付けて
(くれなかった。しまいには「ぶしのつまにもあるまじき」というようないみで、)
くれなかった。しまいには「武士の妻にもあるまじき」というような意味で、
(きげんをわるくした。)
機嫌を悪くした。
(「いくらぶしでも、じぶんのつまがくるしんでいるのを、わらってみているほうは)
「いくら武士でも、自分の妻が苦しんでいるのを、笑って観ている法は
(あるまい」)
あるまい」
(おみちはおっとのれいたんなたいどをうらむようになってきた。こうしたくるしみがいつまでも)
お道は夫の冷淡な態度を恨むようになって来た。こうした苦しみがいつまでも
(つづいたら、じぶんはおそかれはやかれえたいのしれないゆうれいのためにせめころされて)
続いたら、自分は遅かれ速かれ得体の知れない幽霊のために責め殺されて
(しまうかもしれない。もうこうなったらむすめをかかえていっときもはやくこんな)
しまうかも知れない。もうこうなったら娘をかかえて一刻も早くこんな
(ばけものやしきをにげだすよりほかあるまいと、おみちはもうおっとのこともじぶんのことも)
化け物屋敷を逃げ出すよりほかあるまいと、お道はもう夫のことも自分のことも
(ふりかえっているよゆうがなくなった。)
振り返っている余裕がなくなった。
(「そういうわけでございますから、あのやしきにはどうしてもいられません。)
「そういう訳でございますから、あの屋敷にはどうしてもいられません。
(おさっしください」)
お察しください」
(おもいだしてもぞっとするというように、おみちはこのはなしをするあいだにもときどきに)
思い出してもぞっとすると云うように、お道はこの話をする間にも時々に
(いきをのんでみをおののかせていた。そのおどおどしているめのいろがいかにも)
息を嚥んで身をおののかせていた。そのおどおどしている眼の色がいかにも
(いつわりをつつんでいるようにはみえないので、あにはかんがえさせられた。)
偽りを包んでいるようには見えないので、兄は考えさせられた。
(「そんなことがまったくあるかしらん」)
「そんな事がまったくあるかしらん」
(どうかんがえても、そんなことがありそうにもおもえなかった。おばたが)
どう考えても、そんなことが有りそうにも思えなかった。小幡が
(とりあわないのもむりはないとおもった。まつむらも「ばかをいえ」と、あたまから)
取り合わないのも無理はないと思った。松村も「馬鹿をいえ」と、頭から
(しかりつけてしまおうかともおもったが、いもうとがこれほどにおもいつめているものを、)
叱りつけてしまおうかとも思ったが、妹がこれほどに思い詰めているものを、
(ただいちがいにしかっておいやるのもなんだかかわいそうのようでもあった。)
唯いちがいに叱って追いやるのも何だか可哀そうのようでもあった。
(ことにいもうとはこんなことをいうものの、このじけんのそこにはまだほかになにか)
殊に妹はこんなことを云うものの、この事件の底にはまだほかに何か
(こみいったじじょうがひそんでいないともかぎらない。いずれにしてもおばたに)
こみいった事情がひそんでいないとも限らない。いずれにしても小幡に
(いちどあったうえで、よくそのじじょうをたしかめてみようとけっしんした。)
一度逢った上で、よくその事情を確かめてみようと決心した。
(「おまえのかたくちばかりではわからん。ともかくもおばたにあって、せんぽうのりょうけんを)
「お前の片口ばかりでは判らん。ともかくも小幡に逢って、先方の料簡を
(きいてみよう、ばんじはおれにまかしておけ」)
訊いてみよう、万事はおれに任しておけ」
(いもうとをじぶんのやしきにのこしておいて、まつむらはぞうりとりひとりをつれて、)
妹を自分の屋敷に残して置いて、松村は草履取り一人を連れて、
(すぐにしえどがわばたにでむいた。)
すぐ西江戸川端に出向いた。