ああ玉杯に花うけて 第十二部 1
長文です。青空文庫より引用。
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問題文
(わがいもうとをゆうわくしてだらくのさかいにひきこもうとしつつあるちびこうをさがしまわった)
わが妹を誘惑して堕落の境にひきこもうとしつつあるチビ公を探し回った
(こういちがいままつのしたかげでみたのはたしかにいもうとふみこのかたそでとえびちゃのはかまである。)
光一がいま松の下陰で見たのはたしかに妹文子の片袖とえび茶のはかまである。
(「ひとりだろうか、ふたりだろうか」 かれにはそれがわからなかった。)
「ひとりだろうか、ふたりだろうか」 かれにはそれがわからなかった。
(じゅういくほんとなくならんだまつとまつとのあいだはせまい。 「どうしてこんなところへ)
十幾本となく並んだ松と松との間はせまい。 「どうしてこんなところへ
(きてるんだろう、たぶんちびといっしょだろう」 こういちはこうかんがえた、)
来てるんだろう、多分チビと一緒だろう」 光一はこう考えた、
(だがきゅうにふたりのまえへでたらふたりはおどろいてにげるかもしれない。)
だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。
(かれはこうおもってしずかにあしをしのばした。ととつぜんよこあいのまつかげから)
かれはこう思ってしずかに足をしのばした。と突然横合いの松かげから
(くちぶえがおこった。とおもうまもなくいしのつぶてがしほうからとんできた。)
口笛が起こった。と思う間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。
(「だれだ」とこういちははいごをむいていった。がひとのすがたはみえない。)
「だれだ」と光一は背後を向いていった。が人の姿は見えない。
(なのはなばたけのあいだやひりょうごやのあいだからさかんにつぶてがとんでくる。)
菜の花畑の間や肥料小屋の間からさかんにつぶてが飛んでくる。
(「ひれつなやつだ、でてこい」 かれはこういいながらはっぽうをにらんだ。そうして)
「卑劣なやつだ、でてこい」 かれはこういいながら八方を睨んだ。そうして
(ふたたびふみこのほうをみやるとふみこのすがたはもうみえない。 「しまった、どこへ)
ふたたび文子の方を見やると文子の姿はもう見えない。 「しまった、どこへ
(にげたろう」 かれはちまなこになってさがした。もうつぶては)
逃げたろう」 かれは血眼になってさがした。もうつぶては
(とんでこないが、おみやのけいだいはしんとしてひとのおともない。)
飛んでこないが、お宮の境内はしんとして人の音もない。
(かぜがでてまつのこずえをさらさらとならした。こまかいはのかげのところどころに)
風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに
(はるのひがこぼれたようにだいちにひかっている。こういちはおどうのまえにでた。)
春の日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。
(そこのさくらのもとにせんぞうがたっている。こういちはかっとした。かれはのじしのごとく)
そこの桜の下に千三が立っている。光一は赫とした。かれは野猪のごとく
(とっしんした。 「おい、ちび!」とかれはさけんだ。せんぞうはおどろいてかおをあげた。)
突進した。 「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。
(かれはいまいしじしのしゃせいをしていたのであった。 「やい、きさまはおれを)
かれはいま石獅子の写生をしていたのであった。 「やい、きさまはおれを
(だましたな、きさまはおれのいもうとをきさまは・・・・・・きさまは・・・・・・」)
だましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」
(あまりにせきこんだのでこういちのこえがのどにつまった。せんぞうはあきれて)
あまりにせきこんだので光一の声が喉につまった。千三はあきれて
(めをきょろきょろさせた。かれはこういちがいたずらにこんなことをいってるのだと)
目をきょろきょろさせた。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと
(おもった。 「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」)
思った。 「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」
(「ぼくはこまいぬのしゃせいをしてるんだよ、どうもね、ひとつのほうがくちをあいて)
「ぼくは高麗犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて
(ひとつのほうがくちをしめてるのがふしぎでならねえ」とせんぞうはいった。)
一つの方が口をしめてるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。
(「なにがふしぎだ、きさまがここにいるほうがよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」)
「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」
(「きみはほんとうにそんなことをいってるのか」とせんぞうはあらたまった。)
「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。
(「あたりまえだ、きさまはおれのいもうとをゆうわくしたろう」 「ぼくが!」)
「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」 「ぼくが!」
(「あそこのまつのところでいもうととはなしをしていたのだ、それをおれがみた、)
「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、
(きさまからいもうとにやったてがみもみた、しらないとはいわせないよ、ばかっ」)
きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」
(「おいやなぎ!どうしたというんだ、ぼくがきみのいもうとを?きみ!きみ!)
「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ!
(それはうそだ、とんでもないことだ、きみ、ごかいしちゃいけないよ」)
それは嘘だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ」
(「しらぱっくれるなよ、おれにはしょうこがある」 「じゃしょうこをみせたまえ」)
「白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある」 「じゃ証拠を見せたまえ」
(「しょうこはこれだ」 こういちはげんこつをかためてせんぞうのよこつらをなぐった。)
「証拠はこれだ」 光一は拳骨を固めて千三の横面をなぐった。
(あっとせんぞうはほおにてをあてた。かれはひのごとくかおをあかくしたが)
あっと千三は頬に手をあてた。かれは火のごとく顔を赤くしたが
(やがてめにいっぱいのなみだをためた。 「きみはぼくをなぐったね」)
やがて目に一ぱいの涙をためた。 「きみはぼくをなぐったね」
(「むろんだ、もんくがあるならかかってこい」 「やなぎくん!」とせんぞうは)
「無論だ、文句があるならかかってこい」 「柳君!」と千三は
(こういちのうでをとった。「きみはこうかいするぞ、きみはぼくをそんなにんげんだと)
光一の腕をとった。「きみは後悔するぞ、きみはぼくをそんな人間だと
(おもっていたのか、きみは・・・・・・」 「なにを?なまいきな」)
思っていたのか、きみは……」 「なにを? 生意気な」
(こういちはせんぞうをよこにはらった。せんぞうはまつのねにつまずいてたおれた。つつそでのあわせにしめた)
光一は千三を横に払った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖の袷にしめた
(さんしゃくおびがほどけてふところのしゃせいちょうがえんぴつとともにだいちにおちた。)
三尺帯がほどけて懐の写生帳が鉛筆と共に大地に落ちた。
(このときおみやのはいごからてづかがあらわれた。 「やあやなぎ!どうしたのだ」と)
このときお宮の背後から手塚が現われた。 「やあ柳! どうしたのだ」と
(てづかがいった。 「こいつはね、ふつごうなことをするからこらしてやったんだ」)
手塚がいった。 「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」
(「ちびじゃないか、おいちび、おまえいったいなまいきだよ、おまえはなんだろう、)
「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、
(いま、ここでふみこさんとはなしていたんだろう」とてづかはいった。)
いま、ここで文子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。
(「ぼくはひとりだよ」とせんぞうはたとうともせずだいちにすわりながらいった。)
「ぼくはひとりだよ」と千三は起とうともせず大地に座りながらいった。
(「かくすなよ、おれがちゃんとみていたんだ、なあやなぎ、こいつはゆだんが)
「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんが
(ならないよ、きをつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたらにどと)
ならないよ、気をつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と
(わるいことはしまいからかんにんしてやれ、かわいそうに、おいちび、かいしんしろよ」)
悪いことはしまいから堪忍してやれ、可哀そうに、おいチビ、改心しろよ」
(てづかはこういちをなだめなだめしててをひいてさった。けいだいはふたたび)
手塚は光一をなだめなだめして手を曳いて去った。境内はふたたび
(もとのせいじゃくにかえった。さらさらさらとうごくまつのこずえのうえになもしらぬことりが)
もとの静寂にかえった。さらさらさらと動く松の梢の上に名も知らぬ小鳥が
(ひとつどこからともなくとんできてさえずりだした。)
一つどこからともなく飛んできてさえずりだした。
(そのあいだからとおくのそらのしろいくもがみえる。せんぞうはすわったままうごかなかった。)
その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は座ったまま動かなかった。
(かれはなにがなにやらわからなかった。かれのだいいちにかんじたのはこういちのらんぼう!)
かれはなにがなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴!
(そのつぎにおこったのはかねのちからとうでのちからのそういによってだまってぶじょくに)
そのつぎに起こったのは金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に
(あまんじなければならぬかなしさであった。やなぎはざいさんかのこだ、それにわんりょくがつよい、)
甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財産家の子だ、それに腕力が強い、
(びんぼうでからだがちいさいおれはかれにたいしてていこうすることがない。)
貧乏で身体が小さいおれはかれに対して抵抗することがない。
(いやいやとかれはおもいかえした。これにはなにかじじょうがある。)
いやいやとかれは思い返した。これにはなにか事情がある。
(おれがだいいちになすべきことはおれのけっぱくをあきらかにすることだ。)
おれが第一になすべきことはおれの潔白を明らかにすることだ。
(もしふみこさんをゆうわくしたといううたがいがおれにかかってるものとすれば)
もし文子さんを誘惑したという疑いがおれにかかってるものとすれば
(おれはそのじじつをきわめてやなぎにしゃざいさせなければならぬ。)
おれはその事実をきわめて柳に謝罪させなければならぬ。
(そのときこそはおれはけっしていっぽもゆずらない。)
そのときこそはおれは決して一歩もゆずらない。
(かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。)
かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。
(このことがあってからこういちとせんぞうはきゅうてきのごとくになった。)
このことがあってから光一と千三は仇敵のごとくになった。
(ふたりはみちであってもかおをそむけた。 「いまにふくしゅうしてやるぞ」)
ふたりは道で逢っても顔をそむけた。 「いまに復讐してやるぞ」
(せんぞうはこうはらのなかでいった。ふみこはこういちにきびしくときさとされて)
千三はこう肚の中でいった。文子は光一にきびしく説諭されて
(ふたたびてづかのもとへゆかなくなった。つきひはすぎて、しょちゅうきゅうかがちかづいた。)
ふたたび手塚の許へゆかなくなった。月日はすぎて、暑中休暇が近づいた。
(するとここにめずらしいじけんがおこった。 うらわがくせいべんろんかい!)
するとここにめずらしい事件が起こった。 浦和学生弁論会!
(やきゅうのしあいばかりががくせいのきょうみでない。たいりょくをようせいするとともに)
野球の試合ばかりが学生の興味でない。体力を養成するとともに
(ちしきをもとめなければならぬ。うらわかくちゅうとうがっこうのがくせいがいちどうにかいして)
知識を求めなければならぬ。浦和各中等学校の学生が一堂に会して
(べんろんをけんきゅうしよう、これがもくてきでがくせいべんろんかいなるものがそしきされた。)
弁論を研究しよう、これが目的で学生弁論会なるものが組織された。
(がんらいうらわにたざんかいなるものがあって、しはんがっこうとちゅうがっこうのがくせいゆうしが)
元来浦和に他山会なるものがあって、師範学校と中学校の学生有志が
(ひとつのもんだいをていきょうしてりょうほうにわかれてとうろんしたのであった。)
一つの問題を提供して両方にわかれて討論したのであった。
(だがこのかいにはへいがいがあった。しはんがっこうとちゅうがっこうと、がっこうによって)
だがこの会には弊害があった。師範学校と中学校と、学校によって
(ぎろんをわけたので、つまりたいこうしあいとおなじものになった。それがために)
議論をわけたので、つまり対校試合と同じものになった。それがために
(ちゅうがくせいがしはんせいのせつにさんせいすることができなかったり、しはんせいが)
中学生が師範生の説に賛成することができなかったり、師範生が
(じぶんのこうゆうのせつにはんたいすることができなかったりそのために)
自分の校友の説に反対することができなかったりそのために
(こじんこじんのじゆういしがそくばくされてべんろんのしゅぎがたたなくなった。)
個人個人の自由意志が束縛されて弁論の主義が立たなくなった。
(そこでうらわべんろんかいはいずれのがっこうにぞくするがくせいでもじゆうにしょかいを)
そこで浦和弁論会はいずれの学校に属する学生でも自由に所懐を
(のべてさしつかえないことにした。そうしてもくもくじゅくをもかんゆうした。)
述べてさしつかえないことにした。そうして黙々塾をも勧誘した。
(いよいよとうじつとなった。ばしょはしはんがっこうのだいこうどうである。ときはゆうがたから。)
いよいよ当日となった。場所は師範学校の大講堂である。時は夕方から。