52 パリのノートルダム大聖堂
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問題文
(ごしっくようしきののーとるだむだいせいどうは、ぱりの)
ゴシック様式のノートルダム大聖堂は、パリの
(ちゅうしんぶをながれるせーぬがわのなかすしてとうのとうたんにある。)
中心部を流れるセーヌ川の中州シテ島の東端にある。
(だいせいどうがたっているばしょには、かつてこだいろーまの)
大聖堂が立っている場所には、かつて古代ローマの
(ゆぴてるしんでんがあり、528ねん、しんでんにかえて)
ユピテル神殿があり、528年、神殿に代えて
(きりすときょうのきょうかいがつくられた。)
キリスト教の教会が作られた。
(そのご、もーりすどしゅりーしきょうは、)
その後、モーリス・ド・シュリー司教は、
(だいかいしゅうされたばかりのさん=どにしゅうどういんせいどうの)
大改修されたばかりのサン=ドニ修道院聖堂の
(そうれいさにしょくはつされ、このふるいきょうかいをとりこわして、)
壮麗さに触発され、この古い教会を取り壊して、
(もっとりっぱなものをつくろうとけっしんした。)
もっと立派なものを作ろうと決心した。
(あらたなだいせいどうのけんせつは1163ねんにはじまり、)
新たな大聖堂の建設は1163年に始まり、
(14せいきはじめまでつづいた。ごしっくようしきのだいせいどう)
14世紀初めまで続いた。ゴシック様式の大聖堂
(のれいにもれず、のーとるだむだいせいどうの)
の例に漏れず、ノートルダム大聖堂の
(ふぁさーど(しょうめん)はさんそうこうぞうをなしている。)
ファサード(正面)は三層構造を成している。
(このみっつのそうのうえににほんのとうがたっており、)
この三つの層の上に二本の塔が立っており、
(このにほんはがーごいる(きょうかいをあくりょうからまもると)
この二本はガーゴイル(教会を悪霊から守ると
(しんじられていたかいぶつのちょうこく)のかいろうでつながれている。)
信じられていた怪物の彫刻)の回廊でつながれている。
(かいろうのしたにあるばらまどは、すうひゃくのすてんどぐらすを)
回廊の下にあるバラ窓は、数百のステンドグラスを
(くみあわせたもので、ちょっけいはやく10めーとるある。)
組み合わせたもので、直径は約10メートルある。
(そのしたにあるのが「おうのかいろう」で、もともとは)
その下にあるのが「王の回廊」で、もともとは
(ゆだおうこくといすらえるおうこくのおう28にんのちょうぞうが)
ユダ王国とイスラエル王国の王28人の彫像が
(ならべられていた。しかしふらんすかくめいのとき、)
並べられていた。しかしフランス革命のとき、
(おこったぐんしゅうがこれをふらんすおうのちょうぞうだとかんちがいして、)
怒った群衆がこれをフランス王の彫像だと勘違いして、
(くびをきりおとしてしまった。ちょうぞうは、1845ねんに)
首を切り落としてしまった。彫像は、1845年に
(ちょめいなふらんすじんけんちくかヴぃおれ=る=でゅく)
著名なフランス人建築家ヴィオレ=ル=デュク
(によってしゅうふくされた。ふぁさーどには、)
によって修復された。ファサードには、
(きょうかいへのいりぐちがみっつある。ちゅうおうのいちばんおおきな)
教会への入り口が三つある。中央の一番大きな
(とびらぐちは、さいごのしんぱんのきりすとにささげられたものだ。)
扉口は、最後の審判のキリストに捧げられたものだ。
(そのむかってひだりがせいぼまりあのとびらぐちで、)
その向かって左が聖母マリアの扉口で、
(むかってみぎはせいぼまりあのははであるせいあんなの)
向かって右は聖母マリアの母である聖アンナの
(とびらぐちである。このだいせいどうにはゆたかなれきしがある。)
扉口である。この大聖堂には豊かな歴史がある。
(1185ねん、かえされあのへらくりうすというじんぶつは、)
1185年、カエサレアのヘラクリウスという人物は、
(このばしょからだいさんかいじゅうじぐんをせんげんした。)
この場所から第三回十字軍を宣言した。
(1431ねんには、いんぐらんどおうへんりーろくせいの)
1431年には、イングランド王ヘンリー六世の
(たいかんしきが、また1804ねんにはなぽれおんぼなぱるとの)
戴冠式が、また1804年にはナポレオン・ボナパルトの
(たいかんしきが、じっしされた。ふらんすかくめいのときは、)
戴冠式が、実施された。フランス革命のときは、
(だいせいどうはとうしょ「りせいのでんどう」とかいめいされ、)
大聖堂は当初「理性の殿堂」と改名され、
(さらに「さいこうそんざいのしんでん」とあらためられた。)
さらに「最高存在の神殿」と改められた。
(1970ねんには、ここでしゃるるどごーるの)
1970年には、ここでシャルル・ド・ゴールの
(そうぎがいとなまれた。)
葬儀が営まれた。