紫式部 源氏物語 須磨 1 與謝野晶子訳

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(ひとこうるなみだをわすれおおうみへひかれゆく べきみかとおもいぬ     (あきこ))

人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行く べき身かと思ひぬ     (晶子)

(とうだいのがいせきのだいじんいっぱがきょくたんなあっぱくをしてげんじにふゆかいなめをみせることが)

当帝の外戚の大臣一派が極端な圧迫をして源氏に不愉快な目を見せることが

(おおくなっていく。つとめてれいせいにはしていても、このままでおけば)

多くなって行く。つとめて冷静にはしていても、このままで置けば

(いまいじょうなわざわいがおこってくるかもしれぬとげんじはおもうようになった。)

今以上な禍いが起こって来るかもしれぬと源氏は思うようになった。

(げんじがいんせいのちにぎしているすまというところは、むかしはそうとうにいえなどもあったが、)

源氏が隠梄の地に擬している須磨という所は、昔は相当に家などもあったが、

(ちかごろはさびれてじんこうもきはくになり、ぎょふのすんでいるかずもわずかであると)

近ごろはさびれて人口も稀薄になり、漁夫の住んでいる数もわずかであると

(げんじはきいていたが、いなかといってもひとのおおいところで、ひきしまりのないいんせいに)

源氏は聞いていたが、田舎といっても人の多い所で、引き締まりのない隠梄に

(なってしまってはいやであるし、そうかといって、きょうにあまりとおくては、)

なってしまってはいやであるし、そうかといって、京にあまり遠くては、

(ひとにはいえぬことではあるがふじんのことがきがかりでならぬであろうしと、)

人には言えぬことではあるが夫人のことが気がかりでならぬであろうしと、

(はんもんしたけっかすまへいこうとけっしんした。このさいはげんじのこころにのぼってくる)

煩悶した結果須磨へ行こうと決心した。この際は源氏の心に上ってくる

(かこもみらいもみなかなしかった。いとわしくおもったみやこも、いよいよとおくへ)

過去も未来も皆悲しかった。いとわしく思った都も、いよいよ遠くへ

(はなれていこうとするときになっては、すてさりがたいきのするもののおおいことを)

離れて行こうとする時になっては、捨て去りがたい気のするものの多いことを

(げんじはかんじていた。そのなかでもわかいふじんが、ちかづくわかれを)

源氏は感じていた。その中でも若い夫人が、近づく別れを

(ひびにかなしんでいるようすのあわれさはなににもまさっていたましかった。)

日々に悲しんでいる様子の哀れさは何にもまさっていたましかった。

(このひととはどんなことがあってもさいかいをとげようというかくごはあっても、)

この人とはどんなことがあっても再会を遂げようという覚悟はあっても、

(かんがえてみれば、いちにちふつかのがいはくをしていてもこいしさにたえられなかったし、)

考えてみれば、一日二日の外泊をしていても恋しさに堪えられなかったし、

(にょおうもそのあいだはおなじようにこころぼそがっていたそんなあいだがらであるから、)

女王もその間は同じように心細がっていたそんな間柄であるから、

(いくねんときかんのさだまったべっきょでもなし、むじょうのじんせいでは、かりのわかれがえいきゅうのわかれに)

幾年と期間の定まった別居でもなし、無常の人世では、仮の別れが永久の別れに

(なるやもはかられないのであると、げんじはかなしくて、そっといっしょに)

なるやも計られないのであると、源氏は悲しくて、そっといっしょに

(ともなっていこうというきもちになることもあるのであるが、)

伴って行こうという気持ちになることもあるのであるが、

など

(そうしたさびしいすまのようなところに、かいがんへなみのよってくるほかは、)

そうした寂しい須磨のような所に、海岸へ波の寄ってくるほかは、

(ひとのらいほうすることもないすまいに、このかれいなきじょとどうせいしていることは、)

人の来訪することもない住居に、この華麗な貴女と同棲していることは、

(あまりにふにあいなことではあるし、じしんとしてもつまのいたましさに)

あまりに不似合いなことではあるし、自身としても妻のいたましさに

(くるしまねばならぬであろうとげんじはおもって、それはやめることにしたのを、)

苦しまねばならぬであろうと源氏は思って、それはやめることにしたのを、

(ふじんは、 「どんなひどいところだって、ごいっしょでさえあればわたくしはいい」)

夫人は、 「どんなひどい所だって、ごいっしょでさえあれば私はいい」

(といって、いきたいきぼうのこばまれるのをうらめしくおもっていた。)

と言って、行きたい希望のこばまれるのを恨めしく思っていた。

(はなちるさとのきみも、げんじのかよってくることはすくなくても、いっかのせいかつはぜんぶ)

花散る里の君も、源氏の通って来ることは少なくても、一家の生活は全部

(げんじのほごがあってできているのであるから、このへんどうのまえに)

源氏の保護があってできているのであるから、この変動の前に

(こころをいためているのはもっともなことといわねばならない。)

心をいためているのはもっともなことと言わねばならない。

(げんじのこころにたいしたあいがあったのではなくても、とにかくじょうじんとして)

源氏の心にたいした愛があったのではなくても、とにかく情人として

(ときどきかよってきていたところどころでは、ひとしれずこころをいためているおんなもたすうにあった。)

時々通って来ていた所々では、人知れず心をいためている女も多数にあった。

(にゅうどうのみやからも、またこんなことでじしんのたちばをふりにみちびくとりざたが)

入道の宮からも、またこんなことで自身の立場を不利に導く取り沙汰が

(つくられるかもしれぬというえんりょをせけんへあそばしながらのごいもんが)

作られるかもしれぬという遠慮を世間へあそばしながらの御慰問が

(しじゅうげんじにあった。むかしのひにこのねつじょうがみせていただけたことであったならと)

始終源氏にあった。昔の日にこの熱情が見せていただけたことであったならと

(げんじはおもって、このかたのためにしじゅうものおもいをせねばならぬうんめいがうらめしかった。)

源氏は思って、この方のために始終物思いをせねばならぬ運命が恨めしかった。

(さんがつのにじゅういくにちにきょうをたつことにしたのである。せけんへはなにともはっぴょうせずに、)

三月の二十幾日に京を立つことにしたのである。世間へは何とも発表せずに、

(きわめてしんみつにおもっているけいししち、はちにんだけをともにして、かんたんなにんずうで)

きわめて親密に思っている家司七、八人だけを供にして、簡単な人数で

(でかけることにしていた。こいびとたちのところへはてがみだけをおくって、)

出かけることにしていた。恋人たちの所へは手紙だけを送って、

(ひそかにわかれをつげた。けいしきてきなものでなくて、しんじょうのこもったもので、)

ひそかに別れを告げた。形式的なものでなくて、真情のこもったもので、

(いつまでもじぶんをわすれさすまいとしたてがみをかいたのであったから、)

いつまでも自分を忘れさすまいとした手紙を書いたのであったから、

(きっとぶんがくてきにおもしろいものがあったにちがいないが、そのじぶんにひっしゃは)

きっと文学的におもしろいものがあったに違いないが、その時分に筆者は

(このいたましいできごとにあたまをこんらんさせていて、)

このいたましい出来事に頭を混乱させていて、

(それらのことをちゅういしてきいておかなかったのがざんねんである。)

それらのことを注意して聞いておかなかったのが残念である。

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