「山月記」中島敦(3/6頁)

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問題文

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(いまからいちねんほどまえ、じぶんがたびにでてじょすいのほとりにとまったよるのこと、)

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、

(いっすいしてから、ふとめをさますと、こがいでだれかがわがなをよんでいる。)

一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。

(こえにおうじてそとへでてみると、こえはやみのなかからしきりにじぶんをまねく。)

声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。

(おぼえず、じぶんはこえをおうてはしりだした。)

覚えず、自分は声を追うて走り出した。

(むがむちゅうでかけていくうちに、いつしかみちはさんりんにはいり、)

無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、

(しかも、しらぬまにじぶんはさゆうのてでちをつかんではしっていた。)

しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。

(なにかからだじゅうにちからがみちみちたようなかんじで、)

何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、

(かるがるとがんせきをとびこえていった。きがつくと、)

軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、

(てさきやひじのあたりにけをしょうじているらしい。)

手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。

(すこしあかるくなってから、たにがわにのぞんですがたをうつしてみると、)

少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、

(すでにとらとなっていた。じぶんははじめめをしんじなかった。)

既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。

(つぎに、これはゆめにちがいないとかんがえた。)

次に、これは夢に違いないと考えた。

(ゆめのなかで、これはゆめだぞとしっているようなゆめを、)

夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、

(じぶんはそれまでにみたことがあったから。)

自分はそれまでに見たことがあったから。

(どうしてもゆめでないとさとらねばならなかったとき、じぶんはぼうぜんとした。)

どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。

(そうしておそれた。)

そうして懼れた。

(まったく、どんなことでもおこりうるのだとおもうて、ふかくおそれた。)

全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

(しかし、なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。)

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。

(まったくなにごともわれわれにはわからぬ。)

全く何事も我々には判らぬ。

(りゆうもわからずにおしつけられたものをおとなしくうけとって、)

理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、

など

(りゆうもわからずにいきていくのが、われわれいきもののさだめだ。)

理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

(じぶんはすぐにしをおもうた。しかし、そのとき、)

自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、

(めのまえをいっぴきのうさぎがかけすぎるのをみたとたんに、)

眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、

(じぶんのなかのにんげんはたちまちすがたをけした。)

自分の中の人間は忽ち姿を消した。

(ふたたびじぶんのなかのにんげんがめをさましたとき、)

再び自分の中の人間が目を覚ました時、

(じぶんのくちはうさぎのちにまみれ、あたりにはうさぎのけがちらばっていた。)

自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。

(これがとらとしてのさいしょのけいけんであった。)

これが虎としての最初の経験であった。

(それいらいいままでにどんなしょぎょうをしつづけてきたか、)

それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、

(それはとうていかたるにしのびない。ただ、いちにちのなかにかならずすうじかんは、)

それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、

(にんげんのこころがかえってくる。そういうときには、かつてのひとおなじく、)

人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、

(じんごもあやつれれば、ふくざつなしこうにもたえうるし、)

人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、

(けいしょのしょうくをそらんずることもできる。)

経書の章句を誦んずることも出来る。

(そのにんげんのこころで、とらとしてのおのれのざんぎゃくなおこないのあとをみ、)

その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、

(おのれのうんめいをふりかえるときが、もっともなさけなく、おそろしく、いきどおろしい。)

己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

(しかし、その、にんげんにかえるすうじかんも、)

しかし、その、人間にかえる数時間も、

(ひをへるにしたがってしだいにみじかくなっていく。)

日を経るに従って次第に短くなって行く。

(いままでは、どうしてとらなどになったかとあやしんでいたのに、)

今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、

(このあいだひょいときがついてみたら、)

この間ひょいと気が付いて見たら、

(おれはどうしていぜん、にんげんだったのかとかんがえていた。)

己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

(これはおそろしいことだ。)

これは恐しいことだ。

(いますこしたてば、おれのなかのにんげんのこころは、)

今少し経てば、己の中の人間の心は、

(けものとしてのしゅうかんのなかにすっかりうもれてきえてしまうだろう。)

獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。

(ちょうど、ふるいきゅうでんのいしずえがしだいにどしゃにまいぼつするように。)

ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。

(そうすれば、しまいにおれはじぶんのかこをわすれはて、)

そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、

(いっぴきのとらとしてくるいまわり、きょうのようにみちできみとであっても)

一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても

(ともとみとめることなく、きみをさきくろうてなんのくいもかんじないだろう。)

故人と認めることなく、君を裂き喰ろうて何の悔も感じないだろう。

(いったい、けものでもにんげんでも、もとはなにかほかのものだったんだろう。)

一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。

(はじめはそれをおぼえているが、しだいにわすれてしまい、)

初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、

(はじめからいまのかたちのものだったとおもいこんでいるのではないか?)

初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?

(いや、そんなことはどうでもいい。)

いや、そんな事はどうでもいい。

(おれのなかのにんげんのこころがすっかりきえてしまえば、おそらく、)

己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、

(そのほうが、おれはしあわせになれるだろう。)

その方が、己はしあわせになれるだろう。

(だのに、おれのなかのにんげんは、そのことを、このうえなくおそろしくかんじているのだ。)

だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。

(ああ、まったく、どんなに、おそろしく、かなしく、せつなくおもっているだろう!)

ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう!

(おれがにんげんだったきおくのなくなることを。)

己が人間だった記憶のなくなることを。

(このきもちはだれにもわからない。だれにもわからない。)

この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。

(おれとおなじみのうえになったものでなければ。)

己と同じ身の上に成った者でなければ。

(ところで、そうだ。おれがすっかりにんげんでなくなってしまうまえに、)

ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、

(ひとつたのんでおきたいことがある。)

一つ頼んで置きたいことがある。

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