夏目漱石 明暗(8)

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問題文

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(「いやよ、あたし」)

「厭よ、あたし」

(おのべはすぐことわった。かのじょのことばにはなんのよどみもなかった。)

お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。

(えんりょとしんしゃくをとおりこしたそのごきがつだにはあまりにふいすぎた。)

遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。

(かれはそうとうのそくりょくではしっているじどうしゃを、)

彼は相当の速力で走っている自動車を、

(とつぜんとめられたときのようなしょうげきをうけた。)

突然停められた時のような衝撃を受けた。

(かれはじぶんにどうじょうのないさいくんにたいしてきをわるくするまえに、まずおどろいた。)

彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。

(そうしてさいくんのかおをながめた。)

そうして細君の顔を眺めた。

(「あたし、いやよ。おかもとへいってそんなはなしをするのは」)

「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」

(おのべはふたたびおなじことばをおっとのまえにくりかえした。)

お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。

(「そうかい。それじゃしいてたのまないでもいい。しかし・・・・・・」)

「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」

(つだがこういいかけたとき、おのべはひやかな(けれどもおちついた))

津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)

(おっとのことばを、すくっておいしりぞけるようにさえぎった。)

夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。

(「だって、あたしきまりがわるいんですもの。いつでもいくたんびに、)

「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、

(おのべはいいところへよめにいってしあわせだ、やっかいはなし、)

お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、

(せいけいにこまるんじゃなしっていわれつけているところへもってきて、)

生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、

(ふいにそんなごきんのはなしなんかすると、)

不意にそんな御金の話なんかすると、

(きっとへんなかおをされるにきまっているわ」)

きっと変な顔をされるにきまっているわ」

(おのべがいちがいにつだのいらいをしりぞけたのは、おっとにどうじょうがないというよりも、)

お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、

(むしろおかもとにたいするみえにせいせられたのだということが)

むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事が

(ようやくつだのふにおちた。)

ようやく津田の腑に落ちた。

など

(かれのめのうちにやどったひややかなひかりがきえた。)

彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。

(「そんなにらくなみぶんのようにふいちょうしちゃこまるよ。)

「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。

(かいかぶられるのもいいが、)

買い被られるのもいいが、

(ときによるとかえってそれがためにめいわくしないともかぎらないからね」)

時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」

(「あたしふいちょうしたおぼえなんかないわ。ただむこうでそうきめているだけよ」)

「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」

(つだはついきゅうもしなかった。)

津田は追窮もしなかった。

(おのべもそれいじょうせつめいするめんどうをとらなかった。)

お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。

(ふたりはちょっとかいわをとぎらしたあとでまたじっさいもんだいにたちもどった。)

二人はちょっと会話を途切らした後でまた実際問題に立ち戻った。

(しかしいままでじぶんのけいざいにかんしてあまりこころをいためたことのないつだには、)

しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、

(べつにどうしようというぶんべつもでなかった。)

別にどうしようという分別も出なかった。

(「おとうさんにもこまっちまうな」というだけであった。)

「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。

(おのべはぐうぜんおもいついたように、いままでそっちのけにしてあった、)

お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、

(じぶんのはれぎとおびにめをうつした。)

自分の晴着と帯に眼を移した。

(「これどうかしましょうか」)

「これどうかしましょうか」

(かのじょはかねのはいったあついおびのはしをてにとって、)

彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、

(おっとのめにうつるように、でんとうのひかりにかざした。)

夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。

(つだにはそのいみがちょっとのみこめなかった。)

津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。

(「どうかするって、どうするんだい」)

「どうかするって、どうするんだい」

(「しちやへもってったらおかねをかしてくれるでしょう」)

「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」

(つだはおどろかされた。)

津田は驚ろかされた。

(じぶんがいまだかつてけいけんしたことのないようなやりくりさんだんを、)

自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、

(よめにきたてのわかいさいくんが、はやくのむかしからしょうちしているとすれば、)

嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、

(それはかれにとっておどろくべきかちのあるはっけんにそういなかった。)

それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。

(「おまえじぶんのきものかなんかしちにいれたことがあるのかい」)

「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」

(「ないわ、そんなこと」)

「ないわ、そんな事」

(おのべはわらいながら、さげすむようなくちょうでつだのといをうちけした。)

お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。

(「じゃしちにいれるにしたところでようすがわからないだろう」)

「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」

(「ええ。だけどそんなことなんでもないでしょう。)

「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。

(いれるとことがきまれば」)

入れると事がきまれば」

(つだはきょくたんなばあいのほか、)

津田は極端な場合のほか、

(じぶんのさいくんにそうしたげびたまねをさせたくなかった。)

自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。

(おのべはべんかいした。)

お延は弁解した。

(「ときがしってるのよ。あのひはたくにいるじぶんよくふろしきづつみをかかえて)

「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて

(しちやへつかいにいったことがあるんですって。)

質屋へ使いに行った事があるんですって。

(それからちかごろじゃはがきさえだせば、)

それから近頃じゃ端書さえ出せば、

(むこうからしなものをうけとりにきてくれるっていうじゃありませんか」)

向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」

(さいくんがだいじなきものやおびをじぶんのためにていきょうしてくれるのは)

細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは

(つだにとってうれしいじじつであった。)

津田にとって嬉しい事実であった。

(しかしそれをあえてさせるのは)

しかしそれをあえてさせるのは

(またかれにとってのくつうにほかならなかった。)

また彼にとっての苦痛にほかならなかった。

(さいくんにたいしてきのどくというよりも)

細君に対して気の毒というよりも

(むしろおっとのきょうりをきずつけるといういみにおいてかれはちゅうちょした。)

むしろ夫の矜りを傷けるという意味において彼は躊躇した。

(「まあよくかんがえてみよう」)

「まあよく考えて見よう」

(かれはきんさくじょうなんらのかいけつもあたえずにまたにかいへのぼっていった。)

彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。

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