夏目漱石 明暗(3)
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問題文
(かどをまがってほそいこうじへはいったとき、)
角を曲って細い小路へ這入った時、
(つだはわがもんぜんにたっているさいくんのすがたをみとめた。そのさいくんはこっちをみていた。)
津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。
(しかしつだのかげがまがりかどからでるやいなや、すぐしょうめんのほうへむきなおった。)
しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。
(そうしてしろいほそいてをひたいのところへかざすようにあてがってなにかみあげるふうをした。)
そうして白い繊い手を額の所へ翳すようにあてがって何か見上げる風をした。
(かのじょはつだがじぶんのすぐそばへよってくるまでそのたいどをあらためなかった。)
彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
(「おいなにをみているんだ」)
「おい何を見ているんだ」
(さいくんはつだのこえをきくとさもおどろいたようにきゅうにこっちをふりむいた。)
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
(「ああびっくりした。おかえりあそばせ」)
「ああ吃驚した。御帰り遊ばせ」
(どうじにさいくんはじぶんのもっているあらゆるめのかがやきをあつめて)
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて
(いちどにおっとのうえにそそぎかけた。)
一度に夫の上に注ぎかけた。
(それからこころもちこしをかがめてかるいえしゃくをした。)
それから心持腰を曲めて軽い会釈をした。
(なかばさいくんのきょうたいにおうじようとしたつだはなかばしゅんじゅんしてたちどまった。)
半ば細君の嬌態に応じようとした津田は半ば逡巡して立ち留まった。
(「そんなところにたってなにをしているんだ」)
「そんな所に立って何をしているんだ」
(「まってたのよ。おかえりを」)
「待ってたのよ。御帰りを」
(「だってなにかいっしょうけんめいにみていたじゃないか」)
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
(「ええ。あれすずめよ。すずめがおむこうのたくのにかいのひさしにすをくってるんでしょう」)
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食ってるんでしょう」
(つだはちょっとむこうのたくのやねをみあげた。)
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。
(しかしそこにはすずめらしいもののかげもみえなかった。)
しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。
(さいくんはすぐてをおっとのまえにだした。)
細君はすぐ手を夫の前に出した。
(「なんだい」「ようつえ」)
「何だい」「洋杖」
(つだははじめてきがついたようにじぶんのもっているようつえをさいくんにわたした。)
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。
(それをうけとったかのじょはまたじぶんでげんかんのこうしどをあけておっとをさきへいれた。)
それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。
(それからじぶんもおっとのあとについてくつぬぎからのぼった。)
それから自分も夫の後に跟いて沓脱から上った。
(おっとにきものをぬぎかえさせたかのじょはつだがひばちのまえにすわるかすわらないうちに、)
夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、
(またかってのほうからせっけんいれをてぬぐいにつつんでもってでた。)
また勝手の方から石鹸入を手拭に包んで持って出た。
(「ちょっといまのうちひとふろあびていらっしゃい。)
「ちょっと今のうち一風呂浴びていらっしゃい。
(またそこへすわりこむとおっくうになるから」)
またそこへ坐り込むと臆劫になるから」
(つだはしかたなしにてをだしててぬぐいをうけとった。)
津田は仕方なしに手を出して手拭を受取った。
(しかしすぐたとうとはしなかった。)
しかしすぐ立とうとはしなかった。
(「ゆはきょうはやめにしようかしら」)
「湯は今日はやめにしようかしら」
(「なぜ。さっぱりするからいっていらっしゃいよ。)
「なぜ。さっぱりするから行っていらっしゃいよ。
(かえるとすぐごはんにしてあげますから」)
帰るとすぐ御飯にして上げますから」
(つだはしかたなしにまたたちのぼった。へやをでるとき、)
津田は仕方なしにまた立ち上った。室を出る時、
(かれはちょっとさいくんのほうをふりかえった。)
彼はちょっと細君の方をふり返った。
(「きょうかえりにこばやしさんへよってみてもらってきたよ」)
「今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ」
(「そう。そうしてどうなの、しんさつのけっかは。おおかたもうなおってるんでしょう」)
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒ってるんでしょう」
(「ところがなおらない。いよいよやっかいなことになっちまった」)
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
(つだはこういったなり、あとをききたがるさいくんのしつもんをききずてにしておもてへでた。)
津田はこう云ったなり、後を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
(おなじわだいがふたたびふうふのあいだにもどってきたのは)
同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは
(ばんしょくがすんでつだがまだじぶんのへやへひきとらないよいのくちであった。)
晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。
(「いやね、きるなんて、こわくって。)
「厭ね、切るなんて、怖くって。
(いままでのようにそっとしておいたってよかないの」)
今までのようにそっとしておいたってよかないの」
(「やっぱりいしゃのほうからいうとこのままじゃきけんなんだろうね」)
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
(「だけどいやだわ、あなた。もしきりそこないでもすると」)
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
(さいくんはこいかっこうのいいまゆをこころもちよせておっとをみた。つだはとりあわずにわらっていた。)
細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。
(するとさいくんがとつぜんきがついたようにきいた。)
すると細君が突然気がついたように訊いた。
(「もししゅじゅつをするとすれば、またにちようでなくっちゃいけないんでしょう」)
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
(さいくんにはこのつぎのにちようにおっととともにしんるいからさそわれて)
細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて
(しばいけんぶつにいくやくそくがあった。)
芝居見物に行く約束があった。
(「まだせきをとってないんだからかまえやしないさ、ことわったって」)
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
(「でもそりゃわるいわ。せっかくしんせつにああいってくれるものをことわっちゃ」)
「でもそりゃ悪いわ。せっかく親切にああ云ってくれるものを断っちゃ」
(「わるかないよ。そうとうのじじょうがあってことわるんなら」)
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
(「でもあたしいきたいんですもの」)
「でもあたし行きたいんですもの」
(「おまえはいきたければおいでな」)
「御前は行きたければおいでな」
(「だからあなたもいらっしゃいな、ね。おいや?」)
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭?」
(つだはさいくんのかおをみてくしょうをもらした。)
津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。