野菊の墓 伊藤左千夫 ①

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政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。

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問題文

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(のちのつきというじぶんがくると、どうもおもわずにはいられない。)

後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。

(おさないわけとはおもうがなにぶんにもわすれることができない。)

幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。

(もはやじゅうねんよもすぎさったむかしのことであるから、)

もはや十年余よも過ぎ去った昔のことであるから、

(こまかいじじつはおおくはおぼえていないけれど、)

細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、

(こころもちだけはいまなおきのうのごとく、そのときのことをかんがえていると、)

心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、

(またくとうじのこころもちにたちかえって、なみだがとめどなくわくのである。)

全く当時の心持に立ち返って、涙がとめどなく湧くのである。

(かなしくもありたのしくもありというようなじょうたいで、)

悲しくもあり楽しくもありというような状態で、

(わすれようとおもうこともないではないが、)

忘れようと思うこともないではないが、

(むしろくりかえしくりかえしかんがえては、)

寧ろ繰返し繰返し考えては、

(むげんてきのきょうみをむさぼっていることがおおい。)

夢幻的の興味を貪って居る事が多い。

(そんなわけからちょっとものにかいておこうかというきになったのである。)

そんな訣から一寸物に書いて置こうかという気になったのである。

(ぼくのうちというのは、まつどからにりばかりくだって、)

僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、

(やぎりのわたしをひがしへわたり、)

矢切の渡しを東へ渡り、

(こだかいおかのうえでやはりやぎりむらといってるところ。)

小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。

(やぎりのさいとうといえば、このかいわいでのきゅうかで、)

矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、

(さとみのくずれがにさんにんここへおちてひゃくしょうになったうちのひとりが)

里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が

(さいとうといったのだとそふからきいている。)

斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。

(やしきのにしがわにいちじょうごろくしゃくもまわるようなしいのきが)

屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が

(しごほんかさなりあってたっている。)

四五本重なり合って立って居る。

(むらいちばんのいもりでむらじゅうからうらやましがられている。)

村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。

など

(むかしからいくらあらしがふいても、このしいもりのために、)

昔からいくらあらしが吹いても、この椎森のために、

(ぼくのうちばかりはやねをはがれたことはただのいちどもないとのはなしだ。)

僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。

(うちなどもずいぶんとふるい、はしらがのこらずしいのきだ。)

家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。

(それがまたすすやらあかやらでなんのきかみわけがつかぬくらい、)

それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、

(おくのまのもっともけむりにとおいとこでも、てんじょういたがまるでゆたんでぬったように、)

奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、

(いたのもくめもわからぬほどくろい。)

板の木目も判らぬほど黒い。

(それでもたちはわりあいにたかくて、)

それでも建ちは割合に高くて、

(かんたんならんまもありどうのくぎかくしなどもうってある。)

簡単な欄間もあり銅の釘隠なども打ってある。

(そのくぎかくしがばかにおおきいがんであった。)

その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。

(もちろんちょっとみたのではきかかねかもしれないほどふるびている。)

勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。

(ぼくのははなどもせんぞのいいつたえだからといって、)

僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、

(このせんごくじだいのいぶつてきふるやを、たいへんにじまんされていた。)

この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。

(そのころはははちのみちでひさしくわずらっておられ、)

その頃母は血の道で久しく煩って居られ、

(くろぬりてきなおくのひとまがいつもははのびょうじょくとなっていた。)

黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥となって居た。

(そのつぎのじゅうじょうのまのみなみすみに、にじょうのしょうざしきがある。)

その次の十畳の間の南隅に、二畳の小座敷がある。

(ぼくがいないときははたおりばで、)

僕が居ない時は機織場で、

(ぼくがいるうちはぼくのどくしょしつにしていた。)

僕が居る内は僕の読書室にしていた。

(てすりまどのしょうじをあけてあたまをだすと、)

手摺窓の障子を明けて頭を出すと、

(しいのえだがあおぞらをさえぎってきたをおおうている。)

椎の枝が青空を遮って北を掩うている。

(ははがながらくぶらぶらしていたから、)

母が永らくぶらぶらして居たから、

(いちかわのしんるいでぼくにはゆかりのいとこになっている、)

市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、

(たみこというおんなのこがしごとのてつだいやらははのかんごやらにきておった。)

民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。

(ぼくがいまわすれることができないというのは、)

僕が今忘れることが出来ないというのは、

(そのたみことぼくとのかんけいである。そのかんけいといっても、)

その民子と僕との関係である。その関係と云っても、

(ぼくはたみことげれつなかんけいをしたのではない。)

僕は民子と下劣な関係をしたのではない。

(ぼくはしょうがっこうをそつぎょうしたばかりでじゅうごさい、)

僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、

(つきをかぞえるとじゅうさんさいなんかげつというころ、)

月を数えると十三歳何ヶ月という頃、

(たみこはじゅうしちだけれどそれもうまれがおそいから、)

民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、

(じゅうごとすこしにしかならない。)

十五と少しにしかならない。

(やせぎすであったけれどもかおはまるいほうで、)

痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、

(すきとおるほどしろいひふにあかみをおんだ、)

透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、

(まことにつやのよいこであった。)

誠につやの好い児であった。

(いつでもいきいきとしてげんきがよく、)

いつでもいきいきとして元気がよく、

(そのくせきはよわくてにくげのすこしもないこであった。)

そのくせ気は弱くて憎気の少しもない児であった。

(もちろんぼくとはだいのなかよしで、ざしきをはくといってはぼくのところをのぞく、)

勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、

(しょうじをはたくといってはぼくのざしきへはいってくる、)

障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入ってくる、

(わたしもほんがよみたいのてならいがしたいのという、)

私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、

(たまにははたきのえでぼくのせなかをついたり、)

たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、

(ぼくのみみをつまんだりしてにげてゆく。)

僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。

(ぼくもたみこのすがたをみればこいこいというてふたりであそぶのがなによりおもしろかった。)

僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。

(ははからいつでもしかられる。)

母からいつでも叱られる。

(「またたみやはまさのところへはいってるな。)

「また民やは政の所へ這入ってるナ。

(こらぁさっさとそうじをやってしまえ。)

コラァさっさと掃除をやってしまえ。

(これからはまさのどくしょのじゃまなどはしてはいけません。たみやはとしうえのくせに・・・」)

これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に・・・」

(などとしきりにこごとをいうけれど、)

などと頻りに小言を云うけれど、

(そのじつははもたみこをばひじょうにかわいがっているのだから、)

その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、

(いっこうにこごとがきかない。)

一向に小言がきかない。

(わたしにもすこしてならいをさして・・・などとときどきたみこはだだをいう。)

私にも少し手習をさして・・・などと時々民子はだだをいう。

(そういうときのははのこごともきまっている。)

そういう時の母の小言もきまっている。

(「おまえはてならいよかさいほうです。きものがまんぞくにぬえなくては)

「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては

(おんないちにんまえとしてよめにゆかれません」)

女一人前として嫁にゆかれません」

(このころぼくにいってんのじゃねんがなかったはもちろんであれど、)

この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、

(たみこのほうにも、いやなかんがえなどはすこしもなかったにそういない。)

民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。

(しかしははがよくこごとをいうにもかかわらず、)

しかし母がよく小言を云うにも拘わらず、

(たみこはなおあさのごはんだひるのごはんだというてはぼくをよびにくる。)

民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。

(よびにくるたびに、いそいではいってきて、)

呼びにくる度に、急いで這入って来て、

(ほんをみせろのふでをかせのといってはしばらくあそんでいる。)

本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。

(そのあいだにもははのくすりをもってきたかえりや、)

その間にも母の薬を持ってきた帰りや、

(ははのようをたしたかえりには、きっとぼくのところへはいってくる。)

母の用を達した帰りには、きっと僕の所へ這入ってくる。

(ぼくもたみこがのぞかないひはなんとなくさびしくものたらずおもわれた。)

僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。

(きょうはたみさんはなにをしているかなとおもいだすと、ふらふらっとしょしつをでる。)

今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。

(たみこをみにゆくというほどのこころではないが、)

民子を見にゆくというほどの心ではないが、

(ちょっとたみこのすがたがめにふれればきがおちつくのであった。)

一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。

(なんのこったやっぱりたみこをみにきたんじゃないかと、)

何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、

(じぶんでじぶんをあざけったようなことがしばしばあったのである。)

自分で自分を嘲った様なことがしばしばあったのである。

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