夢十夜 6
関連タイピング
問題文
(なんだかいやになった。はやくもりへいってすててしまおうとおもっていそいだ。)
何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
(「もうすこしいくとわかる。・・・ちょうどこんなばんだったな」)
「もう少し行くと解る。・・・ちょうどこんな晩だったな」
(とせなかでひとりごとのようにいっている。)
と背中で独り言のように云っている。
(「なにが」ときわどいこえをだしてきいた。)
「何が」と際どい声を出して聞いた。
(「なにがって、しっているじゃないか」とこどもはあざけるようにこたえた。)
「何がって、知っているじゃないか」と子供は嘲るように答えた。
(するとなんだかしってるようなきがしだした。)
すると何だか知ってるような気がし出した。
(けれどもはんぜんとはわからない。ただこんなばんであったようにおもえる。)
けれども判然とは分からない。ただこんな晩であったように思える。
(わかってはたいへんだから、わからないようにはやくすててしまって)
分かっては大変だから、分からないように速く捨ててしまって
(やすこころしなくってはならないようにおもえる。じぶんはますますあしをはやめた。)
安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
(あめはさっきからふっている。みちはだんだんくらくなる。)
雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。
(ほとんどむちゅうである。ただせなかにちいさいこぞうがくっついていて)
ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて
(そのこぞうがじぶんのかこ、げんざい、みらいをことごとくてらして)
その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して
(すんぶんのじじつももらさないかがみのようにひかっている。)
寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。
(しかもそれがじぶんのこである。そうしてもうもくである。)
しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。
(じぶんはたまらなくなった。)
自分はたまらなくなった。
(「ここだ、ここだ。ちょうどそのすぎのねのところだ」)
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
(あめのなかでこぞうのこえははんぜん、きこえた。)
雨の中で小僧の声は判然、聞こえた。
(じぶんはおぼえずとどまった。いつしかもりのなかへはいっていた。)
自分は覚えず留まった。いつしか森の中へ這入っていた。
(ひとまばかりさきにあるくろいものはたしかにこぞうのいうとおりすぎのきとみえた。)
一間ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
(「おとうさん、そのすぎのねのところだったね」)
「御父さん、その杉の根の処だったね」
(「うん、そうだ」とおもわずこたえてしまった。)
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
(「ぶんかごねんたつどしだろう」なるほどぶんかごねんたつどしらしくおもわれた。)
「文化五年辰年だろう」なるほど文化五年辰年らしく思われた。
(「おまえがおれをころしたのはいまからちょうどひゃくねんまえだね」)
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
(じぶんはこのことばをきくやいなや、いまからひゃくねんぜんぶんかごねんのたつどしの)
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年の
(こんなやみのばんに、このすぎのねで、ひとりのもうもくをころしたというじかくが)
こんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が
(こつねんとしてあたまのなかにたった。)
忽然として頭の中に起った。
(おれはひとごろしであったんだなとはじめてきがついたとたんに)
おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に
(せなかのこがきゅうにいしじぞうのようにおもくなった。)
背中の子が急に石地蔵のように重くなった。