80 『最後の晩餐』
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問題文
(れおなるどだヴぃんちは、1495ねんから1498ねんにこうえんしゃ)
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1495年から1498年に後援者
(るどヴぃこすふぉるつぁのため「さいごのばんさん」をせいさくした。)
ルドヴィコ・スフォルツァのため『最後の晩餐』を制作した。
(みらののさんたまりあでっれぐらーつぃえきょうかいにある)
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会にある
(しゅうどういんのしょくどうないのきたがわのかべにえがかれたもので、せいしょのないようを)
修道院の食堂内の北側の壁に描かれたもので、聖書の内容を
(しゅだいとするかいがとしてはせいようしじょうくっしのゆうめいなさくひんである。)
主題とする絵画としては西洋史上屈指の有名な作品である。
(「さいごのばんさん」は、いえすきりすとが12にんのでしたちと)
『最後の晩餐』は、イエス・キリストが12人の弟子たちと
(すぎこしのしょくじをしているさいちゅうの、ゆだがいえすをうらぎってろーまじんに)
過越の食事をしている最中の、ユダがイエスを裏切ってローマ人に
(ひきわたすちょくぜんのばめんだ。きりすときょうしんがくでは、このしょくじのときに)
引き渡す直前の場面だ。キリスト教神学では、この食事のときに
(いえすはしょくたくのぱんとわいんをじぶんのからだとちにへんかさせた)
イエスは食卓のパンとワインを自分の体と血に変化させた
(とされており、これがさいしょのせいたいはいりょう(せいさんしき)だったと)
とされており、これが最初の聖体拝領(聖餐式)だったと
(かんがえられている。)
考えられている。
(じんぶつはぜんいんがしょくたくのむこうがわにはいちされており、しょくたくは)
人物は全員が食卓の向こう側に配置されており、食卓は
(このせいなるできごとと、しょくどうのこのえのまえでじっさいにしょくじをする)
この聖なる出来事と、食堂のこの絵の前で実際に食事をする
(しゅうどうしたちとをへだてるきょうかいのようなやくわりをはたしている。)
修道士たちとを隔てる境界のような役割を果たしている。
(でしたちは、むかってひだりからみぎに、ばるとろまい、)
弟子たちは、向かって左から右に、バルトロマイ、
(しょうやこぶ、あんでれ、ゆだ、ぺとろ、よはねのかおがみえる。)
小ヤコブ、アンデレ、ユダ、ペトロ、ヨハネの顔が見える。
(いえすがちょうどまんなかにいちし、そのみぎにいるのがじゅんに)
イエスがちょうど真ん中に位置し、その右にいるのが順に
(とます、だいやこぶ、ふぃりぽ、またい、ただい、しもんである。)
トマス、大ヤコブ、フィリポ、マタイ、タダイ、シモンである。
(16せいきのいたりあじんじょるじょヴぁざーりは、)
16世紀のイタリア人ジョルジョ・ヴァザーリは、
(るねさんすきのちょめいないたりあじんげいじゅつかたちのれつでんを)
ルネサンス期の著名なイタリア人芸術家たちの列伝を
(かいているが、そのなかでほんさくひんについて、これは)
書いているが、その中で本作品について、これは
(いえすきりすとが「あなたがたのうちのひとりがわたしを)
イエス・キリストが「あなたがたのうちの一人がわたしを
(うらぎろうとしている」とせんげんした、まさにそのしゅんかんをとらえようと)
裏切ろうとしている」と宣言した、まさにその瞬間を捉えようと
(したものだとのべている。そのためでしたちが、いえすのことばを)
したものだと述べている。そのため弟子たちが、イエスの言葉を
(きいて、ひとりひとりことなるかんじょう(ひてい、ぎねん、いかり、ふしん、あい)
聞いて、ひとりひとり異なる感情(否定、疑念、怒り、不信、愛
(など)をおもてにだしているようすがえがかれている。)
など)を表に出している様子が描かれている。
(もうひとつ、このえとかんれんするふくいんしょのいっせつが、るかによる)
もうひとつ、この絵と関連する福音書の一節が、ルカによる
(ふくいんしょの22しょう21せつで、ここでいえすは「わたしをうらぎるものが、)
福音書の22章21節で、ここでイエスは「わたしを裏切る者が、
(わたしといっしょにてをしょくたくにおいている」とのべている。)
わたしと一緒に手を食卓に置いている」と述べている。
(だヴぃんちのえで、いえすいがいでしょくたくにてをおいているのは)
ダ・ヴィンチの絵で、イエス以外で食卓に手を置いているのは
(ゆだだけだ。ゆだのかおはかげでくらくなっており、からだはあきらかに)
ユダだけだ。ユダの顔は影で暗くなっており、体は明らかに
(いえすからきょりをおこうとしている。これいぜんにほかのげいじゅつかが)
イエスから距離を置こうとしている。これ以前に他の芸術家が
(せいさくしたさいごのばんさんのえでは、ゆだはほかのめんばーとはべつに)
制作した最後の晩餐の絵では、ユダはほかのメンバーとは別に
(えがかれ、しょくたくのはんたいがわにひとりすわっているか、)
描かれ、食卓の反対側にひとり座っているか、
(こうりんなしにされている。それにたいしてだヴぃんちは、ゆだの)
光輪なしにされている。それに対してダ・ヴィンチは、ユダの
(しんりじょうたいにちゅうもくしもっとせんさいにほかのでしたちとえがきわけた。)
心理状態に注目しもっと繊細に他の弟子たちと描き分けた。
(へきがはかんせいごまもなくいたみはじめた。とうじ、へきがにはふれすこがほうを)
壁画は完成後まもなく傷み始めた。当時、壁画にはフレスコ画法を
(つかうのがふつうだったが、このぎほうではおおいそぎでえがいていかなくては)
使うのが普通だったが、この技法では大急ぎで描いていかなくては
(ならなかったため、せいかくさにこだわっていただヴぃんちは、)
ならなかったため、正確さにこだわっていたダ・ヴィンチは、
(このがほうをさいようしなかった。かわりに、あぶらをつかったてんぺらえのぐを)
この画法を採用しなかった。代わりに、油を使ったテンペラ絵具を
(じっけんてきにつかったが、これがかべになかなかていちゃくせずすうねんもするとえに)
実験的に使ったが、これが壁になかなか定着せず数年もすると絵に
(ひびわれやかびがあらわれた。さらに1652ねんにはかべにでいりぐちが)
ひび割れやカビが現れた。さらに1652年には壁に出入り口が
(あけられ、いえすのあしがあったぶぶんがはかいされた。18せいきと)
開けられ、イエスの足があった部分が破壊された。18世紀と
(19せいきになんどかしゅうふくがこころみられたもののもとどおりにはならず、)
19世紀に何度か修復が試みられたものの元どおりにはならず、
(だいにじせかいたいせんちゅうにはしょくどうがばくげきをうけ、そんしょうはさらに)
第二次世界大戦中には食堂が爆撃を受け、損傷はさらに
(ひどくなった。1978ねん、だいきぼなしゅうふくさぎょうがいたりあせいふに)
ひどくなった。1978年、大規模な修復作業がイタリア政府に
(よってかいしされ、さぎょうそのものはしゅうふくのせんもんか)
よって開始され、作業そのものは修復の専門家
(ぴにんぶらんびっらばるちろんが20ねんいじょうかけて)
ピニン・ブランビッラ・バルチロンが20年以上かけて
(じっしした。あらたにしゅうふくされたほんさくひんは、しょくどうにくうちょうせつびが)
実施した。新たに修復された本作品は、食堂に空調設備が
(せっちされたのち、1999ねんにふたたびいっぱんこうかいされた。)
設置されたのち、1999年に再び一般公開された。