紫式部 源氏物語 須磨 20 與謝野晶子訳(終)

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(ゆうじょうがしばらくなぐさめたあとのげんじはまたさびしいひとになった。)

友情がしばらく慰めたあとの源氏はまた寂しい人になった。

(ことしはさんがつのついたちにみのひがあった。 「きょうです、おこころみなさいませ。)

今年は三月の一日に巳の日があった。 「今日です、お試みなさいませ。

(ふこうなめにあっているものがみそぎをすればかならずこうかがあるといわれるひで)

不幸な目にあっている者が御禊をすれば必ず効果があるといわれる日で

(ございます」 かしこがっていうものがあるので、うみのちかくへまたいちど)

ございます」 賢がって言う者があるので、海の近くへまた一度

(いってみたいとおもってもいたげんじはいえをでた。ほんのまくのようなものを)

行ってみたいと思ってもいた源氏は家を出た。ほんの幕のような物を

(ひきまわしてかりのみそぎばをつくり、たびのおんみょうじをやとってげんじははらいをさせた。)

引きまわして仮の御禊場を作り、旅の陰陽師を雇って源氏は禊いをさせた。

(ふねにややおおきいはらいのにんぎょうをのせてながすのをみても、)

船にやや大きい禊いの人形を乗せて流すのを見ても、

(げんじはこれににたじしんのみじめさをおもった。 )

源氏はこれに似た自身のみじめさを思った。

(しらざりしおおうみのはらにながれきてひとかたにやはものはかなしき )

知らざりし大海の原に流れ来て一方にやは物は悲しき

(とうたいながらしゃじょうのざにつくげんじは、こうしたあかるいところではまして)

と歌いながら沙上の座に着く源氏は、こうした明るい所ではまして

(みずぎわだってみえた。すこしかすんだそらとおなじいろをしたうみがうらうらと)

水ぎわだって見えた。少し霞んだ空と同じ色をした海がうらうらと

(なぎわたっていた。はてもないてんちをながめていて、)

凪ぎ渡っていた。果てもない天地をながめていて、

(げんじはかこみらいのことがいろいろとおもわれた。 )

源氏は過去未来のことがいろいろと思われた。

(やおよろづかみもあわれとおもうらんおかせるつみのそれとなければ )

八百よろづ神も憐れと思ふらん犯せる罪のそれとなければ

(とげんじがうたいおわったときに、かぜがふきだしてそらがくらくなってきた。)

と源氏が歌い終わった時に、風が吹き出して空が暗くなってきた。

(みそぎのしきもまだまったくおわっていなかったがひとびとはたちさわいだ。)

御禊の式もまだまったく終わっていなかったが人々は立ち騒いだ。

(ひじがさあめというものらしくにわかあめがふってきてこのうえもなくあわただしい。)

肱笠雨というものらしくにわか雨が降ってきてこの上もなくあわただしい。

(いっこうははまべからひきあげようとするのであったがかさをとりよせるまもない。)

一行は浜べから引き上げようとするのであったが笠を取り寄せる間もない。

(そんなよういなどははじめからされてなかったうえに、うみのかぜはなにもなにもふきちらす。)

そんな用意などは初めからされてなかった上に、海の風は何も何も吹き散らす。

(むちゅうでいえのほうへはしりだすころに、うみのほうはふとんをひろげたようにふくれながら)

夢中で家のほうへ走り出すころに、海のほうは蒲団を拡げたように腫れながら

など

(ひかっていて、らいめいとでんこうがおそうてきた。すぐうえにおちてくるおそれもかんじながら)

光っていて、雷鳴と電光が襲うてきた。すぐ上に落ちて来る恐れも感じながら

(ひとびとはやっといえについた。 「こんなことにであったことはない。)

人々はやっと家に着いた。 「こんなことに出あったことはない。

(かぜのふくことはあっても、まえからよこくてきにてんきがわるくなるものであるが、)

風の吹くことはあっても、前から予告的に天気が悪くなるものであるが、

(こんなににわかにぼうふううになるとは」 こんなことをいいながらさんそうのひとびとは)

こんなににわかに暴風雨になるとは」 こんなことを言いながら山荘の人々は

(このてんこうをおそろしがっていたがらいめいもなおやまない。あめのあしのあたるところは)

この天候を恐ろしがっていたが雷鳴もなおやまない。雨の脚の当たる所は

(どんなところもつきやぶられるようなごううがふるのである。こうしてせかいが)

どんな所も突き破られるような強雨が降るのである。こうして世界が

(めつぼうするのかとみながこころぼそがっているときに、げんじはしずかにきょうをよんでいた。)

滅亡するのかと皆が心細がっている時に、源氏は静かに経を読んでいた。

(ひがくれるころからかみなりはすこしとおざかったが、かぜはよるもふいていた。)

日が暮れるころから雷は少し遠ざかったが、風は夜も吹いていた。

(しんぶつへひとびとがたいがんをおおくたてたそのちからのあらわれがこれであろう。)

神仏へ人々が大願を多く立てたその力の顕われがこれであろう。

(「もうすこしぼうふううがつづいたら、なみにひかれてうみへいってしまうにちがいない。)

「もう少し暴風雨が続いたら、浪に引かれて海へ行ってしまうに違いない。

(つなみというものはにわかにおこってひとじにがあるものだときいていたが、)

海嘯というものはにわかに起こって人死にがあるものだと聞いていたが、

(きょうのはあめかぜがげんいんになっていてそれともちがうようだ」)

今日のは雨風が原因になっていてそれとも違うようだ」

(などとひとびとはかたっていた。よるのあけがたになってみながねてしまったころ、)

などと人々は語っていた。夜の明け方になって皆が寝てしまったころ、

(げんじはすこしうとうととしたかとおもうと、にんげんでないすがたのものがきて、)

源氏は少しうとうととしたかと思うと、人間でない姿の者が来て、

(「なぜおうさまがめしていらっしゃるのにあちらへこないのか」)

「なぜ王様が召していらっしゃるのにあちらへ来ないのか」

(といいながら、げんじをもとめるようにしてそのへんをあるきまわるゆめをみた。)

と言いながら、源氏を求めるようにしてその辺を歩きまわる夢を見た。

(さめたときにげんじはおどろきながら、それではあのぼうふううもうみのりゅうおうがうつくしいにんげんに)

さめた時に源氏は驚きながら、それではあの暴風雨も海の竜王が美しい人間に

(こころをひかれてじぶんにみいってのしわざであったときがついてみると、)

心を惹かれて自分に見入っての仕業であったと気がついてみると、

(おそろしくてこのいえにいることがたえられなくなった。)

恐ろしくてこの家にいることが堪えられなくなった。

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