半七捕物帳 津の国屋15

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岡本綺堂 半七捕物帳シリーズ 第16話

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(「おとっさんはいんきょするのも、ぼうさんになるのも、まあいったんはおもい)

「お父っさんは隠居するのも、坊さんになるのも、まあ一旦は思い

(とどまったんですけれど、このごろになってまたどうしてもうちにはいられないと)

止まったんですけれど、この頃になって又どうしても家には居られないと

(いいだして、ともかくもこうとくじまえのおてらへとうぶんいっていることになったんです。)

云い出して、ともかくも広徳寺前のお寺へ当分行っていることになったんです。

(おっかさんやばんとうがこんどもいろいろにとめたんですけれど、おとっさんは)

阿母さんや番頭が今度もいろいろに止めたんですけれど、お父っさんは

(どうしてもきかないんだからしかたがありません」)

どうしても肯かないんだから仕方がありません」

(「ぼうさんになるんじゃないんでしょう」)

「坊さんになるんじゃないんでしょう」

(「ぼうさんになるわけじゃないんですけれど、なにしろとうぶんはおてらのごやっかいに)

「坊さんになる訳じゃないんですけれど、なにしろ当分はお寺の御厄介に

(なっていて、ほかのぼうさんたちがひまなときには、おきょうをおしえてもらうことに)

なっていて、ほかの坊さん達が暇な時には、御経を教えて貰うことに

(なるんですって。なんといってもきかないんだから、おっかさんももう)

なるんですって。なんと云っても肯かないんだから、阿母さんももう

(あきらめているようです」)

あきらめているようです」

(「でもとうぶんはおてらへいっていて、きがすこしおちついたらかえっていいかも)

「でも当分はお寺へ行っていて、気が少し落ち着いたら却っていいかも

(しれませんね」と、もじはるはなぐさめるようにいった。「そのほうがおうちのためかも)

知れませんね」と、文字春は慰めるように云った。「その方がお家の為かも

(しれませんよ。そうなると、あとはおっかさんとばんとうさんとでごしょうばいのほうを)

知れませんよ。そうなると、あとは阿母さんと番頭さんとで御商売の方を

(やっていくことになるんですね。それでもばんとうさんがちょうばにすわっていなされば)

やって行くことになるんですね。それでも番頭さんが帳場に坐っていなされば

(だいじょうぶですわ」)

大丈夫ですわ」

(「ほんとうにきんべえがいなかったら、うちはやみです。あとはわかいものばかりですから」)

「本当に金兵衛がいなかったら、家は闇です。あとは若い者ばかりですから」

(ばんとうのきんべえはじゅういちのとしからつのくにやへほうこうにきて、にじゅうごねんかんもぶじに)

番頭の金兵衛は十一の年から津の国屋へ奉公に来て、二十五年間も無事に

(つとめとおしてことしさんじゅうごになるが、まだひとりみでじっちょくにちょうばをあずかっている。)

勤め通して今年三十五になるが、まだ独身で実直に帳場を預かっている。

(ほかにはげんぞう、ちょうたろう、じゅうしろうというわかいものと、ゆうきち、みのすけ、りしちという)

ほかには源蔵、長太郎、重四郎という若い者と、勇吉、巳之助、利七という

(こぞうがいる。それにしゅじんふうふとおゆきと、つごうじゅうにんぐらしのかないにたいして、)

小僧がいる。それに主人夫婦とお雪と、都合十人暮らしの家内に対して、

など

(じょちゅうふたりではいままででもすこしむりであったところへ、そのじょちゅうがみなたちさって)

女中二人では今迄でも少し無理であったところへ、その女中がみな立ち去って

(しまっては、これだけのにんげんにさんどのめしをくわせるだけでもよういでない。)

しまっては、これだけの人間に三度の飯を食わせるだけでも容易でない。

(そのくろうをおもいやると、もじはるはいよいよおゆきをかわいそうにおもったが、)

その苦労を思いやると、文字春はいよいよお雪を可哀そうに思ったが、

(まさかにてつだいにいってやるわけにもゆかないので、これからだんだんに)

まさかに手伝いに行ってやるわけにもゆかないので、これからだんだんに

(さむぞらにむかって、おゆきのしろいやわらかいてさきにいたましいひびのきれるのを)

寒空にむかって、お雪の白い柔らかい手先に痛ましいひびの切れるのを

(むなしくながめているよりほかはなかった。)

むなしく眺めているよりほかはなかった。

(「それでもこぞうさんがすこしはてつだってくれるでしょう」)

「それでも小僧さんが少しは手伝ってくれるでしょう」

(「ええ。ゆうきちだけはよくはたらいてくれます」と、おゆきはいった。「ほかのこぞうは)

「ええ。勇吉だけはよく働いてくれます」と、お雪は云った。「ほかの小僧は

(なんにもやくにたちません。ひまさえあればおもてへでて、いぬにからかったりなんか)

なんにも役にたちません。暇さえあれば表へ出て、犬にからかったりなんか

(しているばかりで・・・・・・」)

しているばかりで……」

(「なるほどゆうどんはよくはたらくようですね」)

「なるほど勇どんはよく働くようですね」

(ゆうきちはきんべえのとおえんのもので、やはりじゅういちのとしからほうこうにきて、まだろくねんにしか)

勇吉は金兵衛の遠縁の者で、やはり十一の年から奉公に来て、まだ六年にしか

(ならないが、としのわりにはからだもおおきくにんげんもすばやいほうで、みせのしごとのあいだには)

ならないが、年の割にはからだも大きく人間も素捷い方で、店の仕事の間には

(おくのようにもみをいれてはたらく。わかいもののうちではちょうたろうがよくはたらく。)

奥の用にも身を入れて働く。若い者のうちでは長太郎がよく働く。

(かれはじゅうくで、さきにやねがわらがおちてきずつけられたときにも、あたまとかおとを)

彼は十九で、さきに屋根瓦が落ちて傷つけられた時にも、頭と顔とを

(はくふでまいて、そのひからいつものとおりにはたらいていたのを、)

白布で巻いて、その日からいつもの通りに働いていたのを、

(もじはるもしっていた。)

文字春も知っていた。

(それからふつかののちに、つのくにやのしゅじんはしたやこうとくじまえのぼだいじへひきうつった。)

それから二日の後に、津の国屋の主人は下谷広徳寺前の菩提寺へ引き移った。

(しゅじんはてらのひとまをかりてとうぶんはそこにひきこもっているのであると、)

主人は寺のひと間を借りて当分はそこに引き籠っているのであると、

(つのくにやではせけんにひろうしていたが、きんじょではまたいろいろのうわさをたてて、)

津の国屋では世間に披露していたが、近所では又いろいろの噂をたてて、

(つのくにやのしゅじんはとうとうぼうずになったとか、すこしきがふれたとか、)

津の国屋の主人はとうとう坊主になったとか、少し気が触れたとか、

(おもいおもいのそうぞうせつをつたえていた。)

思い思いの想像説を伝えていた。

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