半七捕物帳 広重と河獺5
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問題文
(くろぬまのやしきをでて、はんしちはさらにうまみちのほうへいった。)
二 黒沼の屋敷を出て、半七は更に馬道(うまみち)の方へ行った。
(そこにすんでいるこぶんのしょうたをよびだして、あのやしきについて)
そこに住んでいる子分の庄太を呼び出して、あの屋敷に就いて
(ふだんからなにかこみみにはさんでいることはないかとせんさくしたが、)
ふだんから何か小耳にはさんでいることはないかと詮索したが、
(しょうたはべつにききこんだことはないといった。くろぬまけはきんじょでも)
庄太は別に聞き込んだことはないと云った。黒沼家は近所でも
(ひょうばんのかたいやしきで、ほうこうにんもみんなふうぎがいい。こんどのいっけんも)
評判の堅い屋敷で、奉公人もみんな風儀が好い。今度の一件も
(おそらくやしきないのものにかかりあいはあるまいとのはんだんであった。)
おそらく屋敷内の者にかかり合いはあるまいとの判断であった。
(「そうか。じゃあ、まあしかたがねえ」と、はんしちはあおあおとはれた)
「そうか。じゃあ、まあ仕方がねえ」と、半七は青々と晴れた
(しょうがつのおおぞらをあおいだ。「どうだ、しょうた。きょうはてんきもよし、)
正月の大空を仰いだ。「どうだ、庄太。きょうは天気も好し、
(あんまりからっかぜもふかねえから、じゅうまんつぼのほうまでつきあわねえか」)
あんまり空(から)っ風も吹かねえから、十万坪の方まで附き合わねえか」
(「じゅうまんつぼ・・・・・・」としょうたはみょうなかおをした。「あんなところへ)
「十万坪……」と庄太は妙な顔をした。「あんなところへ
(なにしにでかけるんです」)
何しに出かけるんです」
(「ひさしくすなむらのおいなりさまへさんけいしねえから、ふいとおもいたったのよ。)
「久しく砂村のお稲荷様へ参詣しねえから、ふいと思い立ったのよ。
(きょうはしごともはんちくだから、きゅうにごしんじんがきざしたんだ。)
きょうは仕事も半ちくだから、急に御信心がきざしたんだ。
(めいわくでなければいっしょにきてくれ」)
迷惑でなければ一緒に来てくれ」
(「ようがす。わっしもどうでひまなにんそくなんですから、)
「ようがす。わっしもどうでひまな人足なんですから、
(どこへでもおともしますよ」)
どこへでもお供しますよ」
(ふたりはすぐにつれだってでた。もうかれこれやっつ(ごごにじ)すぎだと)
二人はすぐに連れ立って出た。もうかれこれ八ツ(午後二時)過ぎだと
(いうのに、これからなんでふかがわのはてまでわざわざでかけるのかと、)
いうのに、これから何で深川の果てまでわざわざ出かけるのかと、
(しょうたはないしんふしぎにおもっているらしかったが、だまってすなおについてきた。)
庄太は内心不思議に思っているらしかったが、黙って素直について来た。
(あずまばしをわたって、ほんじょをとおりこして、ふかがわのはてのはて、)
吾妻(あずま)橋を渡って、本所を通り越して、深川の果ての果て、
(すなむらしんでんのいなりまえにゆきついたのははちまんのかねがもうゆうななつ(ごごよじ)を)
砂村新田の稲荷前にゆき着いたのは八幡の鐘がもう夕七ツ(午後四時)を
(つきだしたあとで、はるといってもまだひあしのみじかいこのころのゆうかぜは、)
撞き出したあとで、春といってもまだ日晷(ひあし)の短いこの頃の夕風は、
(どてしたにかれのこっているきいろいあしのはをさむそうにふるわせていた。)
堤(どて)下に枯れのこっている黄色い葦の葉を寒そうにふるわせていた。
(「おやぶん。ちっとひえてきましたぜ」と、しょうたはえりをすくめた。)
「親分。ちっと冷えて来ましたぜ」と、庄太は襟をすくめた。
(「ああ、ひがおちかかると、やっぱりさむい」)
「ああ、日が落ちかかると、やっぱり寒い」
(いなりのやしろにさんけいして、ふたりはそこにあるよしずばりの)
稲荷のやしろに参詣して、二人はそこにある葭簀(よしず)張りの
(かけぢゃやにはいった。もうそろそろとみせをしまいにかかっていたにょうぼうは、)
掛茶屋にはいった。もうそろそろと店を仕舞にかかっていた女房は、
(きゃくをみてきゅうにえがおをつくった。)
客を見て急に笑顔をつくった。
(「おさむいのにえんぽうごしんじんでございます。なんにもございませんが、)
「お寒いのに遠方御信心でございます。なんにもございませんが、
(おだんごでもあっためてさしあげましょうか」)
お団子でもあっためて差し上げましょうか」
(「なんでもいいからあついちゃをいっぱいのましてもらおう」と、)
「なんでも好いから熱い茶を一杯飲まして貰おう」と、
(しょうたはよほどくたびれたらしいかおをしてしょうぎにこしをおろした。)
庄太はよほどくたびれたらしい顔をして床几(しょうぎ)に腰をおろした。
(やきざましのだんごをもういちどあぶりなおして、にょうぼうはいそがしそうに)
焼きざましの団子をもう一度あぶり直して、女房はいそがしそうに
(やかんのしたをしぶうちわであおいでいた。)
薬罐(やかん)の下を渋団扇であおいでいた。
(「おかみさん。このごろはおまいりがたくさんありますかえ」と、はんしちはきいた。)
「おかみさん。この頃はおまいりがたくさんありますかえ」と、半七は訊いた。
(「なにしろおさむいもんですから」と、にょうぼうはちゃをはこびながらこたえた。)
「なにしろお寒いもんですから」と、女房は茶を運びながら答えた。
(「これでもらいげつになるとずっとおにぎやかになります」)
「これでも来月になるとずっとお賑やかになります」
(「そうだろう。らいげつはもうはつうまだから」と、はんしちは)
「そうだろう。来月はもう初午(はつうま)だから」と、半七は
(たばこをすいながらいった。「それでもまいにちにさんじゅうにんはありますかえ」)
煙草をすいながら云った。「それでも毎日二三十人はありますかえ」
(「おおいときはそのくらいございますが、きょうなぞはたったじゅうにさんにんで)
「多い時はその位ございますが、きょうなぞは唯(た)った十二三人で
(ございました。そのなかではんぶんぐらいはにっさんのかたばかりでございます」)
ございました。そのなかで半分ぐらいは日参の方ばかりでございます」
(「やっぱりここまでにっさんのひとがありますかえ、ごしんじんはおそろしいものだ。)
「やっぱりここまで日参の人がありますかえ、御信心はおそろしいものだ。
(わたしなんぞはいちどでもいいかげんにがっかりしてしまった」と、)
わたしなんぞは一度でも好い加減にがっかりしてしまった」と、
(しょうたはかたいやきだんごをほおばりながら、いかにもかんしんしたようにいった。)
庄太は硬い焼団子を頬張りながら、いかにも関心したように云った。