半七捕物帳 広重と河獺9

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岡本綺堂 半七捕物帳シリーズ 第十話

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問題文

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(「つかんことをもうしあげるようですが、とうきょうになってからひどくへったものは、)

「つかんことを申し上げるようですが、東京になってからひどく減ったものは、

(こりやかわうそですね。きつねやたぬきはいうまでもありませんが、かわうそもこのごろでは)

狐狸や河獺ですね。狐や狸は云うまでもありませんが、河獺もこの頃では

(めったにみられなくなってしまいました。このむこうじまやせんじゅばかりじゃありません。)

滅多に見られなくなってしまいました。この向島や千住ばかりじゃありません。

(いぜんはすこしおおきいどぶがわのようなところにはきっとかわうそがすんで)

以前は少し大きい溝川(どぶがわ)のようなところにはきっと河獺が棲んで

(いたもので、げんにあたごしたのさくらがわ、あんなところにもすをつくっていて、)

いたもので、現に愛宕下の桜川、あんなところにも巣を作っていて、

(ときどきにひとをおどかしたりしたもんです。かっぱがどうのこうのと)

ときどきに人を嚇(おど)かしたりしたもんです。河童がどうのこうのと

(いうのはたいていこのかわうそのやつのいたずらですよ。これもそのかわうそのおはなしです」)

いうのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。これもその河獺のお話です」

(こうかよねんのくがつのことで、あきのあめのに、さんにちふりつづいたくらいばんであった。)

弘化四年の九月のことで、秋の雨の二、三日ふりつづいた暗い晩であった。

(よるももういつつ(ごごはちじ)にちかいとおもうころに、ほんじょなかの)

夜ももう五ツ(午後八時)に近いと思うころに、本所中(なか)の

(ごうかわらまちのあらものやのみせしょうじをあわただしくあけて、)

郷瓦町(ごうかわらまち)の荒物屋の店障子をあわただしく明けて、

(ころげこむようにはいってきたおとこがあった。しょうばいもののろうそくでも)

ころげ込むようにはいって来た男があった。商売物の蠟燭でも

(かいにきたのかとおもうと、おとこはいきをはずませてみずをくれといった。)

買いに来たのかと思うと、男は息をはずませて水をくれと云った。

(うすぐらいあかりのかげでそのかおをひとめみえて、にょうぼうはきゃっとこえをあげた。)

うす暗い灯の影でその顔を一と目見て、女房はきゃっと声をあげた。

(そのおとこはひたいからほおから、くびすじまでいちめんになまなましいちをふきだして、)

その男は額から頬から、頸(くび)筋まで一面になまなましい血を噴き出して、

(りょうほうのびんはかきむしられたようにみだれていた。ばらしがみで)

両方の鬢(びん)は搔きむしられたように乱れていた。散らし髪で

(ちだらけのかおーーそれをおもてのくらやみからふいにつきだされたときに、)

血だらけの顔ーーそれを表の暗やみから不意に突き出された時に、

(にょうぼうのおどろくのもむりはなかった。そのこえをきいておくからていしゅもでてきた。)

女房のおどろくのも無理はなかった。その声を聞いて奥から亭主も出て来た。

(「まあ、どうしたんです」と、さすがにおとこだけに、かれはまずこえをかけた。)

「まあ、どうしたんです」と、さすがに男だけに、彼はまず声をかけた。

(「なんだかしりませんが、げんもりばしのそばをとおると、)

「なんだか知りませんが、源森(げんもり)橋のそばを通ると、

(くらいなかからとびだしてきて、かさのうえからこんなめにあいました」)

暗い中から飛び出して来て、傘の上からこんな目に逢いました」

など

(それをきいて、ていしゅもにょうぼうもすこしおちついた。)

それを聞いて、亭主も女房も少し落ち着いた。

(「それはきっとかわうそです」と、ていしゅはいった。「ここらにはわるいかわうそがいて、)

「それはきっと河獺です」と、亭主は云った。「ここらには悪い河獺がいて、

(ときどきにいたずらをするんです。こういうあめのふるばんには、よくやられます。)

ときどきにいたずらをするんです。こういう雨のふる晩には、よくやられます。

(かさのうえへとびあがってかおをひっかいたんでしょうよ」)

傘の上へ飛びあがって顔を引っ搔いたんでしょうよ」

(「そうかもしれません。わたしはもうむちゅうでなんにもわかりませんでした」)

「そうかも知れません。わたしはもう夢中でなんにも判りませんでした」

(しんせつなふうふはすぐにみずをくんできて、おとこのかおのちをあらってやった。)

親切な夫婦はすぐに水を汲んで来て、男の顔の血を洗ってやった。

(ありあわせたきずぐすりなどをぬってやった。おとこはもうごじゅうをふたつもみっつも)

ありあわせた傷薬などを塗ってやった。男はもう五十を二つも三つも

(こしているかとおもわれるちょうにんで、そのみなりもいやしくなかった。)

越しているかと思われる町人で、その服装(みなり)も卑しくなかった。

(「なにしろとんだごさいなんでした。いまごろどちらへいらっしったんです」と、)

「なにしろ飛んだ御災難でした。今頃どちらへいらっしったんです」と、

(にょうぼうはたばこのひをだしながらきいた。)

女房は煙草の火を出しながら聞いた。

(「なに、このごきんじょまでまいったものです」)

「なに、この御近所までまいったものです」

(「おたくは・・・・・・」 「したやでございます」)

「お宅は……」 「下谷でございます」

(「かさをそんなにやぶかれてはおこまりでしょう」)

「傘をそんなに破かれてはお困りでしょう」

(「あずまばしをわたりましたらかごがありましょう。いや、これはどうも)

「吾妻橋を渡りましたら駕籠がありましょう。いや、これはどうも

(いろいろごやっかいになりました」)

いろいろ御厄介になりました」

(おとこはせわになったれいだといって、にょうぼうにいっしゅのかねをくれた。)

男は世話になった礼だと云って、女房に一朱の銀(かね)をくれた。

(こっちがじたいするのをむりにおさめさせて、あたらしいろうそくをもらってちょうちんをつけて、)

こっちが辞退するのを無理に納めさせて、新しい蠟燭を貰って提灯をつけて、

(かれはかさをさしてくらいあめのなかをでていった。でたかとおもうと、)

かれは傘をさして暗い雨のなかを出て行った。出たかと思うと、

(やがてまたひっかえしてきて、おとこはみせぐちからこごえでいった。)

やがて又引っ返して来て、男は店口から小声で云った。

(「どうか、こんばんのことは、どなたにもごないぶんにねがいます」)

「どうか、今晩のことは、どなたにも御内分にねがいます」

(「かしこまりました」と、ていしゅはこたえた。)

「かしこまりました」と、亭主は答えた。

(そのあくるひである。したやおなりみちのどうぐやのいんきょじゅうえもんから)

そのあくる日である。下谷御成道(おなりみち)の道具屋の隠居十右衛門から

(ちょうないのじしんばんへとどけでた。さくや、なかのごうのかわばたをつうこうのおりからに、)

町内の自身番へとどけ出た。昨夜、中の郷の川ばたを通行の折柄に、

(なにものかにおいかけられて、しょじのさいふをとられたうえに、めんぶにすうかしょの)

何者かに追いかけられて、所持の財布を取られたうえに、面部に数カ所の

(きずをうけたというのである。そのうったえによって、まちぶぎょうしょからとうばんのよりきどうしんが)

疵をうけたというのである。その訴えによって、町奉行所から当番の与力同心が

(したやへでばった。ばしょがみとさまのやしきのきんじょであるというので、そのせんぎも)

下谷へ出張った。場所が水戸様の屋敷の近所であるというので、その詮議も

(ひとしおげんじゅうであった。じゅうえもんはじしんばんへよびだされてとりしらべを)

ひとしお厳重であった。十右衛門は自身番へ呼び出されて取り調べを

(うけることになった。)

うけることになった。

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