104 ルネ・デカルト

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問題文
(ふらんすのらえーにうまれたるねでかるとは、)
フランスのラ・エーに生まれたルネ・デカルトは、
(ぐんたいでこうへいとしてすうねんかんきんむしたのち、)
軍隊で工兵として数年間勤務したのち、
(てつがくすうがくかがくのぶんやでかっきてきなちょさくをしっぴつした。)
哲学・数学・科学の分野で画期的な著作を執筆した。
(そのてつがくは、こんにちではでかるとしゅぎとよばれている。)
その哲学は、今日ではデカルト主義と呼ばれている。
(でかるとがてつがくでめざしたのは、とうじふらんすを)
デカルトが哲学で目指したのは、当時フランスを
(はじめ、ぜんよーろっぱでだいがくきょういくのきそとなって)
はじめ、全ヨーロッパで大学教育の基礎となって
(いたありすとてれすのがくもんたいけいにかわるあらたな)
いたアリストテレスの学問体系に代わる新たな
(たいけいをつくりだすことだった。かれのちょさくでもっともじゅうよう)
体系を作り出すことだった。彼の著作で最も重要
(なのは「せいさつ」だろう。どうしょは、かれがりょこうちゅうに)
なのは『省察』だろう。同書は、彼が旅行中に
(ちいさなへやでむいかかんをすごしたときにかんがえた)
小さな部屋で六日間を過ごしたときに考えた
(ないようをものがたるというけいしきになっている。ここで)
内容を物語るという形式になっている。ここで
(でかるとは、じぶんのしんじるものすべてにぎもんを)
デカルトは、自分の信じるものすべてに疑問を
(なげかけ、うたがうことのできないものだけを)
投げかけ、疑うことのできないものだけを
(しんりとしてみとめようとした。そのかていででかるとは、)
真理として認めようとした。その過程でデカルトは、
(わたしがかんがえているということはうたがいようがないのだから、)
私が考えているということは疑いようがないのだから、
(わたしがそんざいしていることはうたがいようがないというゆうめいな)
私が存在していることは疑いようがないという有名な
(けんかいにたどりつく。これが「われおもう、ゆえにわれあり」、)
見解にたどり着く。これが「われ思う、ゆえにわれあり」、
(もとのらてんごでいえば「こぎとえるごすむ」だ。)
もとのラテン語で言えば「コギト・エルゴ・スム」だ。
(でかるとは、じぶんのこんげんてきなそんざいはうたがえないとけつろん)
デカルトは、自分の根源的な存在は疑えないと結論
(づけるいっぽう、にくたいのありさまはうたがうことができると)
づける一方、肉体のありさまは疑うことができると
(おもっていた。じぶんにかんがえるのうりょくがあることにぎろんの)
思っていた。自分に考える能力があることに議論の
(よちはないが、ぶっしつとしてのにくたいのそんざいはうたがうことが)
余地はないが、物質としての肉体の存在は疑うことが
(できるのだから、でかるとはせいしんとにくたいはべつのもの)
できるのだから、デカルトは精神と肉体は別のもの
(だとしゅちょうした。でかるとは、にくたいはぶつりがくによって)
だと主張した。 デカルトは、肉体は物理学によって
(せつめいされるとおもっていた。かれにとってにくたいは、)
説明されると思っていた。彼にとって肉体は、
(おおきさとかたちとそくどをもってうんどうするきかがくてきな)
大きさと形と速度を持って運動する幾何学的な
(そんざいだった。それにたいしてせいしんは、ひぶっしつてきなかんがえる)
存在だった。それに対して精神は、非物質的な考える
(そんざいだ。だからどうぶつは、でかるとからすればきかい)
存在だ。だから動物は、デカルトからすれば機械
(だった。どうぶつはかんがえない(とかれはおもっていた))
だった。動物は考えない(と彼は思っていた)
(のだから、せいしんをもっておらず、うんどうするぶぶんが)
のだから、精神を持っておらず、運動する部分が
(ふくざつにくみあわさっただけのものにちがいないと)
複雑に組み合わさっただけのものに違いないと
(かんがえていたのである。)
考えていたのである。