101 ミケランジェロ

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(みけらんじぇろは、いたりあせいきるねさんすさいこうの)

ミケランジェロは、イタリア盛期ルネサンス最高の

(げいじゅつかとみなされることがおおい。がかけんちくかしじんどぼくぎしとして)

芸術家と見なされることが多い。画家・建築家・詩人・土木技師として

(てんぷのさいにめぐまれていたが、ほんにんはなによりもちょうこくかをじにんしていた。)

天賦の才に恵まれていたが、本人は何よりも彫刻家を自任していた。

(かれのでんきをかいたじょるじょヴぁざーりは、みけらんじぇろは)

彼の伝記を書いたジョルジョ・ヴァザーリは、ミケランジェロは

(むせいぶつであるだいりせきにせいめいをふきこむことができるとのべている。)

無生物である大理石に生命を吹き込むことができると述べている。

(みけらんじぇろは、1475ねん、とすかなちほうのまちかぷれーぜにうまれた。)

ミケランジェロは、1475年、トスカナ地方の町カプレーゼに生まれた。

(わかいころからけっしゅつしたさいのうのもちぬしで、めでぃちけとうしゅろれんつぉ)

若いころから傑出した才能の持ち主で、メディチ家当主ロレンツォ・

(いるまにふぃこをかこむちしきじんげいじゅつかさーくるにまねかれてさんかした。)

イル・マニフィコを囲む知識人・芸術家サークルに招かれて参加した。

(ふぃれんつぇからろーまにうつると、「ぴえた」(せいぼまりあがしんだ)

フィレンツェからローマに移ると、『ピエタ』(聖母マリアが死んだ

(いえすのいたいをみてなげくすがた)のちょうこくせいさくのいらいをうけ、1499ねんに)

イエスの遺体を見て嘆く姿)の彫刻制作の依頼を受け、1499年に

(かんせいさせた。1501ねんにはふぃれんつぇにもどり、ゆうめいなちょうこく「だびでぞう」を)

完成させた。1501年にはフィレンツェに戻り、有名な彫刻『ダビデ像』を

(せいさくした。そのすうねんご、ろーまによびもどされると、)

制作した。その数年後、ローマに呼び戻されると、

(きょうこうゆりうすにせいから、じしんのびょうどうのため、じつぶつだいよりおおきい40たいの)

教皇ユリウス二世から、自身の廟堂のため、実物大より大きい40体の

(ちょうぞうからなるせいこうなぼひをせっけいせいさくしてほしいとたのまれた。)

彫像から成る精巧な墓碑を設計・制作してほしいと頼まれた。

(しかし、このしごとはすぐにちゅうだんされた。とうのきょうこうほんにんから、)

しかし、この仕事はすぐに中断された。当の教皇本人から、

(ヴぁちかんきゅうでんないにあるしすてぃなれいはいどうのてんじょうぜんめんにえを)

ヴァチカン宮殿内にあるシスティナ礼拝堂の天井全面に絵を

(えがいてほしいとあらたにいらいされたからだ。わかきみけらんじぇろは、)

描いてほしいと新たに依頼されたからだ。若きミケランジェロは、

(ふれすこがをえがいたけいけんがほとんどなかったが、このいらいをわずか)

フレスコ画を描いた経験がほとんどなかったが、この依頼をわずか

(よねんでかんせいさせた。てんじょうががかんせいすると、みけらんじぇろはきょうこうの)

四年で完成させた。天井画が完成すると、ミケランジェロは教皇の

(ぼひのしごとにもどり、1513ねんから1516ねんのあいだに「もーせぞう」と)

墓碑の仕事に戻り、1513年から1516年のあいだに『モーセ像』と

など

(「ひんしのどれい」をせいさくした。ゆりうすにせいはびょうどうがかんせいするまえにしに、)

『瀕死の奴隷』を制作した。ユリウス二世は廟堂が完成する前に死に、

(いぞくはどをこしたぼひにたいきんをしはらうきがなかったので、)

遺族は度を越した墓碑に大金を支払う気がなかったので、

(みけらんじぇろはみずからのせっけいしたぼひをかんせいさせることができなかった。)

ミケランジェロは自らの設計した墓碑を完成させることができなかった。

(らくたんしたかれは、そのごの20ねんかんのたいはんを、きょうりょくなめでぃちけのために、)

落胆した彼は、その後の20年間の大半を、強力なメディチ家のために、

(さまざまなしごとをしてすごした。このじきのもっともゆうめいなさくひんが、)

さまざまな仕事をして過ごした。この時期の最も有名な作品が、

(さんろれんつぉせいどうにあるめでぃちけびょうどうである。)

サン・ロレンツォ聖堂にあるメディチ家廟堂である。

(1534ねんにみけらんじぇろは、しすてぃなれいはいどうのさいだんへきがに)

1534年にミケランジェロは、システィナ礼拝堂の祭壇壁画に

(ふれすこが「さいごのしんぱん」をえがくためろーまにもどった。)

フレスコ画『最後の審判』を描くためローマに戻った。

(このさくひんでかれはしょめいがわりに、かわはぎのけいでじゅんきょうしたせいばるとろまいの)

この作品で彼は署名代わりに、皮剥ぎの刑で殉教した聖バルトロマイの

(はがされたかわをじぶんににせてえがいている。へきがをかんせいさせたすうねんご、)

剥がされた皮を自分に似せて描いている。壁画を完成させた数年後、

(きょうこうぱうるすよんせいは「さいごのしんぱん」にえがかれたらたいをしゅうきょうがとして)

教皇パウルス四世は『最後の審判』に描かれた裸体を宗教画として

(ふてきせつとかんがえ、こしぬのをえがきくわえさせた。このこしぬのは、きんねんのれいはいどうしゅうふくの)

不適切と考え、腰布を描き加えさせた。この腰布は、近年の礼拝堂修復の

(さいにおおくがとりのぞかれた。みけらんじぇろは、るねさんすきろーまの)

際に多くが取り除かれた。ミケランジェロは、ルネサンス期ローマの

(としけいかくでもせいこうをおさめた。1537ねん、かれはこだいろーまのちゅうしんだった)

都市計画でも成功を収めた。1537年、彼は古代ローマの中心だった

(かぴとりーののおかのちょうじょうにあるあきちのさいせいびをいらいされた。)

カピトリーノの丘の頂上にある空き地の再整備を依頼された。

(そのきゅうねんごには、あらたなさんぴえとろだいせいどうのけんちくしゅにんににんめいされ、)

その九年後には、新たなサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に任命され、

(ゆうめいなどーむ(まるやね)をせっけいしたが、ざんねんなことにかんせいをせいぜんに)

有名なドーム(丸屋根)を設計したが、残念なことに完成を生前に

(みることはできなかった。かれはろーまで89さいでなくなった。)

見ることはできなかった。彼はローマで89歳で亡くなった。

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