野菊の墓 伊藤左千夫 ③

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政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。

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問題文

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(なすばたけというは、しいもりのしたからひとえのやぶをとおりぬけて、)

茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、

(うちよりせいほくにあたるうらのせんざいばたけ。)

家より西北に当る裏の前栽畑。

(がけのうえになってるので、とねがわはもちろんなかがわまでもかすかにみえ、)

崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、

(むさしいちえんがみわたされる。)

武蔵一えんが見渡される。

(ちちぶからあしがらはこねのやまやま、ふじのたかねもみえる。)

秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯も見える。

(とうきょうのうえののもりだというのもそれらしくみえる。)

東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。

(みずのようにすみきったあきのそら、ひはいっけんはんばかりのあたりにかたむいて、)

水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、

(ぼくらふたりがたっているなすばたけをしょうめんにてりかえしている。)

僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。

(あたりいったいにしんとしてまたいかにもはっきりとしたけしき、)

あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、

(われらふたりはしんにがちゅうのひとである。)

吾等二人は真に画中の人である。

(「まあなんというよいけしきでしょう」)

「マア何という好い景色でしょう」

(たみこもしばらくてをやめてたった。)

民子もしばらく手をやめて立った。

(ぼくはここではくじょうするが、)

僕はここで白状するが、

(このときのぼくはたしかにとおかいぜんのぼくではなかった。)

この時の僕はたしかに十日以前の僕ではなかった。

(ふたりはけっしてこのときむじゃきなともだちではなかった。)

二人は決してこの時無邪気な友達ではなかった。

(いつのまにそういうこころもちがおこっていたか、)

いつの間にそういう心持が起って居たか、

(じぶんにはすこしもわからなかったが、やはりははにしかられたころから、)

自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、

(ぼくのむねのなかにもちいさなこいのたまごが)

僕の胸の中にも小さな恋の卵が

(いくつかわきそめておったにちがいない。)

いくつか湧きそめて居ったに違いない。

(ぼくのせいしんじょうたいがいつのまにかへんかしてきたは、)

僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、

など

(かくすことのできないじじつである。)

隠すことの出来ない事実である。

(このひはじめてたみこをおんなとしておもったのが、)

この日初めて民子を女として思ったのが、

(ぼくにじゃねんのほうがありしなによりのしょうこじゃ。)

僕に邪念の萌芽ありし何よりの証拠じゃ。

(たみこがからだをくのじにかがめて、なすをもぎつつあるそのよこがおをみて、)

民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、

(いまさらのようにたみこのうつくしくかわいらしさにきがついた。)

今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。

(これまでにもかわいらしいとおもわぬことはなかったが、)

これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、

(きょうはしみじみとそのうつくしさがみにしみた。)

今日はしみじみとその美しさが身にしみた。

(しなやかにつやのあるびんのけにつつまれたみみたぼ、)

しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、

(ゆたかなほおのしろくあざやかな、あごのくくしめのあいらしさ、)

豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、

(くびのあたりいかにもきよげなる、ふじいろのはんえりやはなぞめのたすきや、)

頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、

(それらがことごとくゆうびにめにとまった。)

それらがことごとく優美に眼にとまった。

(そうなるとおそろしいもので、ものをいうにもおもいきったことはいえなくなる、)

そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる、

(はずかしくなる、きまりがわるくなる、)

羞ずかしくなる、極りが悪くなる、

(みなれいのたまごのさようからおこることであろう。)

皆例の卵の作用から起ることであろう。

(こことおかほどなかがきのへだてができて、ろくろくはなしもせなかったから、)

ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、

(これもいままでならばむろんそんなことかんがえもせぬにきまっているが、)

これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、

(きょうはここでなにかはなさねばならぬようなきがした。)

今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。

(ぼくははじめむぞうさにたみさんとよんだけれど、)

僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、

(あとはむぞうさにことばがつがない。おかしくのどがつまってこえがでない。)

跡は無造作に詞が継がない。おかしく喉がつまって声が出ない。

(たみこはなすをひとつてにもちながらからだをおこして、)

民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、

(「まさおさん、なに・・・」)

「政夫さん、なに・・・」

(「なんでもないけどたみさんはちかごろへんだからさ。)

「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。

(ぼくなんかすっかりきらいになったようだもの」)

僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」

(たみこはさすがににょしょうで、)

民子はさすがに女性で、

(そういうことにはぼくなどよりはるかにしんけいがえいびんになっている。)

そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。

(さもくやしそうなかおして、つとぼくのそばへよってきた。)

さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。

(「まさおさんはあんまりだわ。わたしがいつまさおさんにへだてをしました・・・」)

「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました・・・」

(「なにさ、このごろたみさんは、すっかりかわっちまって、)

「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、

(ぼくなんかにようはないらしいからよ。)

僕なんかに用はないらしいからよ。

(それだってたみさんにふそくをいうわけではないよ」)

それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」

(たみこはせきこんで、「そんなこというはそりゃまさおさんひどいわ、)

民子はせきこんで、「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、

(ごむりだわ。このあいだはふたりをならべておいて、)

御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、

(おかあさんにあんなにしかられたじゃありませんか。)

お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。

(あなたはおとこですからへいきでおいでだけど、わたしはとしはおおいしおんなですもの、)

あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、

(あぁいわれてはじつにめんもくがないじゃありませんか。)

あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。

(それですから、わたしはいっしょうけんめいになってたしなんでいるんでさ。)

それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。

(それをまさおさんへだてるのいやになったろうのというんだもの、)

それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、

(わたしはほんとにつまらない・・・」)

私はほんとにつまらない・・・」

(たみこはなきだしそうなかおつきでぼくのかおをじいっとみている。)

民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視ている。

(ぼくもただはなしのこぐちにそういうたまでであるから、)

僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、

(たみこになきそうになられては、かわいそうにきのどくになって、)

民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、

(「ぼくははらをたっていったではないのに、)

「僕は腹を立って言ったでは無いのに、

(たみさんははらをたったの・・・ぼくはただたみさんがにわかにかわって、)

民さんは腹を立ったの・・・僕はただ民さんが俄に変って、

(あってもくちもきかず、あそびにもこないから、)

逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、

(いやにさびしくかなしくなっちまったのさ。)

いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。

(それだからこれからもときどきはあそびにおいでよ。)

それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。

(おかあさんにしかられたらぼくがとがをせおうから・・・)

お母さんに叱られたら僕が咎を背負うから・・・

(ひとがなんといったってよいじゃないか」)

人が何と云ったってよいじゃないか」

(なんというてもこどもだけにむちゃなことをいう。)

何というても児供だけに無茶なことをいう。

(むちゃなことをいわれてたみこはしんぱいやらうれしいやら、)

無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、

(うれしいやらしんぱいやら、しんぱいとうれしいとがむねのなかで、)

嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、

(ごったになってあらそうたけれど、とうとううれしいほうがかちをしめておわった。)

ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。

(なおみことしことはなしをするうちに、)

なお三言四言話をするうちに、

(たみこはあざやかなくもりのないもとのげんきになった。)

民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。

(ぼくももちろんゆかいがあふれる、)

僕も勿論愉快が溢れる、

(うちゅうかんにただふたりきりいるようなこころもちにおたがいになったのである。)

宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。

(やがてふたりはなすのもぎくらをする。)

やがて二人は茄子のもぎくらをする。

(おおきなはたけだけれど、じゅうがつのなかばすぎでは、)

大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、

(なすもちらほらしかなっていない。)

茄子もちらほらしかなって居ない。

(ふたりでようやくにしょうばかりずつをとりえた。)

二人でようやく二升ばかりずつを採り得た。

(「まぁたみさん、ごらんなさい、いりひのりっぱなこと」)

「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」

(たみこはいつしかざるをしたへおき、りょうてをはなのさきにあわせてたいようをおがんでいる。)

民子はいつしかざるを下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。

(にしのほうのそらはいったいにうすむらさきにぼかしたようないろになった。)

西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。

(ひたあかくあかいばかりでこうせんのでないたいようが)

ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が

(いまそのはんぶんをやまにうずめかけたところ、)

今その半分を山に埋めかけた処、

(ぼくはたみこがいっしんいりひをおがむしおらしいすがたがながくめにのこってる。)

僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。

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