71チンギス・ハン
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
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1 | ぽんこつラーメン | 5591 | A | 5.9 | 94.4% | 328.7 | 1952 | 114 | 29 | 2024/11/05 |
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問題文
(ちんぎすはんはもんごるのぶしょうで、ゆうぼくみんのしょぶぞくから)
チンギス・ハンはモンゴルの武将で、遊牧民の諸部族から
(なるれいこくむざんなぐんぜいをひきいて、わずか20ねんばかりのあいだにこうだいな)
成る冷酷無残な軍勢を率いて、わずか20年ばかりのあいだに広大な
(あじあのしょちいきをせいふくした。しんだじてんで、かれのきずいたもんごるていこくは)
アジアの諸地域を征服した。死んだ時点で、彼の築いたモンゴル帝国は
(せかいしじょうさいだいのりくじょうていこくになっていた。そのご、このていこくはこうけいしゃの)
世界史上最大の陸上帝国になっていた。その後、この帝国は後継者の
(じだいにはいるとすぐにぶんれつしていくが、もんごるぐんのざんぎゃくなしんこうは、)
時代に入るとすぐに分裂していくが、モンゴル軍の残虐な侵攻は、
(よーろっぱとあじあのりょうほうでれきしのてんかんてんとなり、ちんぎすはんは)
ヨーロッパとアジアの両方で歴史の転換点となり、チンギス・ハンは
(ざんにんなじんぶつだというあくひょうをこうせいにのこした。)
残忍な人物だという悪評を後世に残した。
(ちんぎすはんはようみょうをてむじんといい、もんごるのいちぶぞくちょうのむすこと)
チンギス・ハンは幼名をテムジンといい、モンゴルの一部族長の息子と
(してうまれた。ひがしあじあでもんごるじんは、むかしからぼくそうちをもとめてかくちを)
して生まれた。東アジアでモンゴル人は、昔から牧草地を求めて各地を
(てんてんとするゆうぼくせいかつをおくっていた。てむじんは、ちちをころされると13さいで)
転々とする遊牧生活を送っていた。テムジンは、父を殺されると13歳で
(ぶぞくちょうとなった。かれはかりすまてきなりーだーだった。やがてもんごるの)
部族長となった。彼はカリスマ的なリーダーだった。やがてモンゴルの
(ぜんぶぞくをとういつすると、しょぶぞくのりーだーたちから「ぜんこうていのなかのこうてい」を)
全部族を統一すると、諸部族のリーダーたちから「全皇帝の中の皇帝」を
(いみする「ちんぎすはん」のしょうごうをあたえられた。もんごるをとういつすると、)
意味する「チンギス・ハン」の称号を与えられた。モンゴルを統一すると、
(ちんぎすはんは、しょうがいにわたってつづくことになるえんせいじぎょうをかいしした。)
チンギス・ハンは、生涯にわたって続くことになる遠征事業を開始した。
(かれのぐんぜいがせいふくしたりょういきは、ぶぶんてきなものもふくめると、げんだいのちゅうごく、)
彼の軍勢が征服した領域は、部分的なものも含めると、現代の中国、
(ろしあ、もんごる、いらん、あふがにすたん、ぱきすたん、いんど、)
ロシア、モンゴル、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、
(かざふすたん、とるくめにすたん、うずべきすたん、きるぎすなどに)
カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなどに
(およんだ。ちんぎすはんがしんだちょくごにははんとがさいだいとなり、)
及んだ。チンギス・ハンが死んだ直後には版図が最大となり、
(もんごるていこくはちょうせんはんとうからひがしよーろっぱにまでひろがった。)
モンゴル帝国は朝鮮半島から東ヨーロッパにまで広がった。
(もんごるぐんは、ぐんりつがきびしくゆうのうなうえ、なくこもだまるほどざんにんだった。)
モンゴル軍は、軍律が厳しく有能な上、泣く子も黙るほど残忍だった。
(ふつうかれらがとったせんりゃくは、てきたいするとしにおとなしくこうふくする)
ふつう彼らが採った戦略は、敵対する都市におとなしく降伏する
(ちゃんすをあたえ、このもうしでをきょぜつしたらじゅうみんをみなごろしにするという)
チャンスを与え、この申し出を拒絶したら住民を皆殺しにするという
(ものだった。このようなおそろしいほうしんをとったけっか、ちんぎすはんは)
ものだった。このような恐ろしい方針を採った結果、チンギス・ハンは
(たたかわずにくにぜんたいをこうふくさせることができた。もんごるていこくのせいりついぜん、)
戦わずに国全体を降伏させることができた。モンゴル帝国の成立以前、
(よーろっぱとあじあのせってんはひじょうにすくなかった。しかし、ちんぎすはんの)
ヨーロッパとアジアの接点は非常に少なかった。しかし、チンギス・ハンの
(きずいたもんごるていこくのおかげで、りょうたいりくかんでのこうえきとしそうのこうりゅうがほんかくてきに)
築いたモンゴル帝国のおかげで、両大陸間での交易と思想の交流が本格的に
(はじまった。もんごるじんによって、あじあとよーろっぱをむすぶこうえきろ)
始まった。モンゴル人によって、アジアとヨーロッパを結ぶ交易路
(しるくろーどのあんぜんがかくほされ、よーろっぱじんのなかからも、いたりあじん)
シルクロードの安全が確保され、ヨーロッパ人の中からも、イタリア人
(まるこぽーろなど、もんごるじんのしはいするくにへりょこうするものがあらわれた。)
マルコ・ポーロなど、モンゴル人の支配する国へ旅行する者が現れた。